82 自転車旅行記総目次

20歳の時の大阪 ⇔ 北海道最北端の自転車旅行の記録です。
1969年(昭和44年)の夏の物語。
気恥ずかしい言い方ですが、
僕の「20歳の原点」です。







目次 

(数字をクリックすると記事が出ます)


 出発の日
 琵琶湖
 敦賀から鯖江
 金沢
 富山
 直江津
 新潟へ
 新潟その2
 山形・奥の細道
10 日本一周 山の旅人
11 秋田への道
12 秋田から能代、大館
13 十和田湖の険しい道
14 西十和田ユースホステル
15 津軽太宰治の生家
16 北海道へ
17 函館めぐり
18 長万部から洞爺湖
19 室蘭・登別そしてバス
20 白老の誓い!
21 白老・夢の跡
22 札幌へ
23 札幌での再会
24 果てしなき道・旭川
25 最果ての街へ
26 稚内 (上)
27 稚内 (下)
28 日本最北端
29 オホーツク海
30 女性日本一周自転車旅行
31 オホーツクの浜辺で
32 出会いと別れ
33 湧別の交番所で1泊
34 網走へ 
35 網走の街をめぐる
36 知床岬
37 アポロ11号の月世界着陸 
38 美幌峠を越えて
39 幻の摩周湖
40 阿寒湖の風
41 糠平の大誤算
42 帯広駅で会った2人
43 “黄金道路” を走る
44 襟裳岬
45 苫小牧へ2人旅
46 再び函館へ
47 函館の1日
48 下北半島
49 田名部から恐山へ
50 恐怖の恐山
51 下北無情・有情…?  
52 新宿の大将のこと
53 三沢高校東京大学
54 僕が八戸に行く理由
55 ツカハラ家の人々
56 二十歳の原点
57 ウミネコの島
59 一戸二戸三戸…
60 啄木の碑と1通の手紙
61 北上川
62 啄木の碑に集まる人たち
63 啄木・賢治・光太郎
64 高村山荘
65 智恵子展望台
66 雨ニモ負ケズ
67 平泉 中尊寺
68 平泉 幻の毛越寺
69 平泉から石巻
70 石巻の子どもたち
71 仙台
72 福島県いわきへ
73 東北をあとにして
74 東京へ
75 東京の街の中
76 東京見物
77 夢の後楽園球場
78 房総半島から江ノ島
79 箱根越え
80 東名高速道路
81 名古屋から京都へ
82 旅の終わり




古い昔の自転車旅行の長期連載でしたが、お読みいただいた方に心から感謝申し上げます。このブログはこれで終了します。

今日から別のブログを開設しました。
よろしければ、また遊びに来てください。


        ↓


http://blog.goo.ne.jp/non-ap















81 旅の終わり

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第81回






大阪府の標識が見えた。




雨の中を両親に見送られて大阪を出発したのは、6月17日だった。その日が、梅雨入りの日であった。 それから70日が経っていた。


8月25日の朝。
僕は京都の親戚の家を出て、大阪府柏原市へ向かった。
今日が、最終ランである。


長かった自転車旅行も、今日で終わる…。そう思うと、さまざまにこみ上げてくるものがあったけれども、無事に帰って来られたことが、旅の価値の全ての前提になる。
そう思って、僕は、走りながら、神様に感謝していた。


空は曇っていたものの、雨が降りそうな気配はなかった。交通量の多い京都市内を抜けて、国道1号線に出た。


1号線を南に進み、木津川を渡ると、やがて峠にさしかかった。この峠は天王山の近く、京都府大阪府を分ける洞ヶ峠である。これまでに、各地で出合った峻烈な急坂や山間の隘路に比べると、こんな峠は峠とも言えぬ。まあ、なんというか、まるで遊園地である…なーんて思い、旅行中、苦労した幾多の峠越えをふり返った。


洞ヶ峠の上りきった所に標識があがっていた。 


      大阪府 
      枚方市


あぁ。 とうとう、大阪へ戻ってきたのだ。
翼よ、あれがパリの灯だ。
自転車よ、あれが大阪府の標識だ。(なんだ、それは?)


京都、滋賀、福井、石川、富山、新潟…と、僕はこの旅行で、数多くの都道府県を走り、いくつもの 「県境」 を越えてきた。ここが、最後の「県境」であった。


洞ヶ峠を越えて、大阪府枚方市に入ってから、僕の足どりはさらに軽快になり、やがて、大阪市内に入ってきた。


そのとき…。
突如、すぐそばで、けたたましく車のクラクションが鳴った。のけぞるようにそちらを見ると、大きなトラックである。運転席で、よく知らない顔がこちらを向いて手を振っている。


「おーい!」


大声を上げて、僕に手を振る人って、一体誰なんだ…
またクラクションが鳴り、トラックは速度を落として僕の後方に下がり、どうやらそこで停車した模様である。僕も自転車を止めて、後ろを振り向いた。


トラックの運転席から飛び降りてこちらに駆け寄ってきたのは、なんとなく見覚えのある顔であった。
「あれ? あぁ、あの顔は…」 
と僕が思ったとき、相手も、
「オレ、オレ。 覚えている? 函館でいっしょだったろう」


そうだ。 あの、函館のユースホステルに泊ったときの、同部屋の男性だった。あのときは、部屋の全員が、一人旅で、夜遅くまで話したものだ。いま、トラックから降りてきた男性は、京都から来ていたはずだ。会社で喧嘩をして辞めて、むしゃくしゃしていたので北海道へ旅行に来た。…そう言っていた失業中の男性だった。現在は就職をして、大型トラックの運転手の仕事についているようであった。


その時の記事です ↓
http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070628


彼は、僕を見て、
「やっぱりなぁ。そうじゃないかと思ったよ」 と、僕の全身を眺めながら、
「まだ、あの旅行が続いているのかい?」 と、半信半疑の体で、尋ねた。


僕たちは何分間か立ち話をした。京都の彼は、名残惜しそうに、トラックの運転席に戻り、発車した。


僕は再び自転車に乗って大阪市内を走った。
やがて懐かしい信貴・生駒山脈が目に飛び込んできた。


僕が住んでいるのは、大阪市から南に外れた柏原市というところである。信貴・生駒山脈を挟んで、奈良県と隣接している。僕はもう、そのすぐ近くまで迫ってきた。


「近くまで来たら、家に電話してちょうだい。
近所の人たちも、あんたを出迎えたいと言ってるから」


昨日、京都から電話をしたとき、母にそう言われていた。
そろそろ、電話をしなければならない。

家まであと10分ぐらいのところで、僕は自転車を降りた。
そして、公衆電話の前に立ち、自宅の番号を回した。
1回コールするかしないかのうちに……
母のけたたましく弾んだ甲高い声が、受話器に響いた。


                    〜 完 〜











80 名古屋から京都へ

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第80回



台風襲来、“禁断”のヒッチハイクに手を出して名古屋に着く







今日は名古屋から京都まで、かなりの距離を走る予定である。時間に余裕がなかったので、名古屋ユースホステルを、早朝に出発した。僕が出発するとき、ユースホステルの庭で、ラジオ体操が行われていた。宿泊客とスタッフたちが、庭を横切って行く僕の姿を見て、体操をやめ、こちらの方を向いて、全員が、大きな拍手を送ってくれた。その中にいた例の丸坊主の高校生のサイクリストが、
「先輩!あと少しですから、がんばってくださ〜い」 
と手を振ってくれた。




  ………………………………………………………………




旅行前は、ユースホステルという存在すら知らなかった僕だった。
それが、金沢で初めて会員証を作ってもらい、それ以降、
宿泊毎にスタンプを押してもらったら、こんなふうになった。


                ↓





改めて数えてみると、全部で21泊、17ヶ所に泊まっていた。


  6月20日 金沢ユースホステル
  6月25日 吹浦海浜宿舎 (山形)
  6月26日    〃
  6月27日 八橋青年の家 (秋田)
  6月29日 西十和田ユースホステル (青森)
  7月 2日 北星荘 (函館)
  7月 4日 昭和新山ホステル
  7月 5日 金福ユースホステル (登別)
  7月 6日 白老ユースホステル
  7月 7日    〃
  7月 8日 タイムズホステル (札幌)
  7月 9日 YHサッポロハウス (札幌)
  7月10日 旭川ユースホステル
  7月13日 道北青年の家 (稚内
  7月14日    〃
  7月23日 弟子屈青年の家
  7月24日 阿寒ユースホステル
  7月25日    〃
  7月26日 糠平・泉翠館
  8月11日 いわき市ユースホステル (福島)
  8月23日 名古屋ユースホステル




初めて、金沢ユースで会員証用の写真を撮ってもらったときがなつかしい。あのとき短かった髪の毛も、2ヶ月余り経って、ずいぶん伸びた。




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木曽川長良川と、続けて大きな川をわたる。
ここはもう、三重県である。 
三重県と言えば、近畿地方なのか中部地方なのかよくわからないが、道路をまたぐ高架線に近鉄の特急電車が走っているのが見えたときは、さすがに懐かしさがこみあげてきて、電車に手を振りたかったほどである。

僕が住んでいる場所は、近畿日本鉄道、つまり近鉄の沿線にある。その近鉄の電車が、目の前を走っているのだから、あぁ、ここまで帰ってきたんだなぁ、という確かな実感が湧いてくる。


桑名、四日市と通過し、そこから1号線は西へ入って行く。


亀山からゆっくりと道は上り始め、関を過ぎると坂がきつくなってきた。前方には、まるで壁のように、山々が立ちはだかっている。また自転車を降りて押しながら進む。三重・滋賀県境に、南北に連なる鈴鹿山脈であった。もう、きつい坂道はないものと思い込んでいた僕には、軽いショックだった。身近なところの山脈に気がつかなかったのは、なんとも自分らしい話だ。


鈴鹿峠を越えると滋賀県である。
いよいよ、きょうの目的地の京都が近づいてくる。


それで気が緩んだわけでもないだろうけれど、鈴鹿峠を下り、土山町を過ぎたあたりで急に気分が悪くなってきた。水口町で食堂を見つけたので、そこへ入って休憩した。背中がゾクゾクしたかと思うと、全身に悪寒が走った。熱があるみたいだった。
かき氷のレモンを注文し、しばらくテーブルにうつ伏せになった。運ばれてきたかき氷を食べる元気もなく、うつ伏せたまま、少し眠った。


旅行中、一度も病気らしい病気はしなかったのに、ここへ来て、風邪の症状か何かわからないが、突如体調がおかしくなった。45分から1時間ぐらい、その店で眠っていた。


やがて少し楽になってきたので、再び出発した。


20歳という年齢は、いくらでも無理がきくのだなぁ、と、今、しみじみ思う。あれだけ熱っぽく、悪寒に襲われた体が、しばらく走っているうちに、ウソのように消えてなくなったのである…。


草津から大津へ入り、そこから京都へ向かう道は、6月に通った道である。往路は、大津から、琵琶湖の西側を走って福井県に向かった。


復路、再び大津に戻り、1号線を、逢坂山を越えて京都に入る。2ヶ月余り前に、未知の世界に向かって飛び出したスタートの道へ、僕は、さまざまな思い出を詰め込んで、いま、戻ってきた。


6月に下宿へ泊めてもらった友人は、大阪へ帰っていたので、僕は、京都の親戚の家に行き、この日はそこで1泊をした。


体調は、すっかり元に戻っていた。
この旅行も、泣いても笑っても、あと1日だ。




 
箱根が最後だと思った険しい坂道は、まだここにもあった。










79 東名高速道路

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第79回



台風襲来、“禁断”のヒッチハイクに手を出して名古屋に着く







明日にピークが訪れそうな台風9号に直撃されないように、それまでになんとしても名古屋に入りたい…。そう思って、またしても徹夜の走行を試みようとする僕であった。


午後7時、静岡駅。
そして、国道1号線を、藤枝、島田と夜道を走る。
大井川の、長い長い橋を渡る。


道は思ったより起伏が多く、9時ぐらいになると、全身がくたびれてきた。固い決意を胸に秘めた割には、…疲れるのが早いのだ。


道路幅が狭くなり、ダンプカーがすぐ横を追い抜いて行き、その風圧でよろけそうになる。 だんだん心細くなってきた。


かなりきつい上り道が始まり、ますますペダルを踏む脚が重くなる。峠を上りきったあたりでは、車が途切れ、まわりは真っ暗であった。以前にも経験したが、夜に走ると、追い抜くトラックは怖いけれど、一台の車も走っていないという道路も、また気持が悪いものである。

前方にトンネルが見えた。このあたりの地名は、金谷とあった。静岡県掛川市の、少し手前である。そしてトンネルを抜けて、僕は腰を抜かさんばかりに驚いた。


トンネルを抜けると、…そこは 「雨国」 だったのだ。雪国、じゃぁ、ありません。なんとまぁ〜。雨のカケラさえ見えなかったのに、こちら側はざぁざぁ降っている。これは、…これは、何なのだ???


が〜〜〜〜〜ん。


千と千尋の神隠し」 の 映画のキャッチコピーは、


   〜 トンネルのむこうは、不思議の町でした 〜


…だった。 
この当時、もちろんそんな映画はなかったけれども、トンネルひとつ隔てたこの天候の激変は、 不思議の町そのものだった。


雨の勢いはどんどん強くなり、あっというまにびしょ濡れだ。もはや徹夜走行の覚悟も、どこかへ消し飛んでしまっていた。箱根の山を克服しても、清水の次郎長にあやかっても、雨の前にはひとたまりもなく、子羊のようになる僕である。おまけに、台風の影響で風も強い。前からまともに雨と風を受けて、目も明けられないほどだ。


が〜〜〜〜〜ん。


道路沿いに、プレハブのような2階建てのレストランがあった。灯りに吸い込まれる虫のように、僕はそこへ飛び込んだ。看板に、「宿泊OK」という文字があった。


カウンターだけの、ウナギの寝床のように細長い飲食店だった。僕は、狭い店内に無理やり自転車を押し込めながら、
「泊めてください。 もうこれ以上、走れない」
カウンターの奥にいたコックのお兄さんに、言い訳をするのだった。
「あ、そんなところに自転車を入れないで。外に置き場があるからさ」
お兄さんは、あわててカウンタから出て、こちらへ飛んで走ってきた。


お兄さんに2階に上がるように言われ、体を拭いて荷物を持ち、細い階段を上がって行くと、ベッドだけ置いてある狭い部屋があった。トラックの長距離運転手などが、こういうところに泊るのであろう。いちおう浴衣が置いてあったので、それを着て下へ降り、奥にあった小さな風呂に入って、また浴衣を着て店のカウンターに座った。


「トンカツちょうだい」 と、僕は注文した。
お兄さんは、僕の浴衣姿を見て、
「う〜ん。 もう少し小さい浴衣を出しましょうか?」 
と言った。
「はぁ …?」 
と、僕は自分の格好を、改めて眺めてみた。
なるほど、ぶかぶかである。
浴衣など、子どもの頃以来、着たことがない。こちらへ歩いてくるとき、どうやら裾を引きずってきたらしい。「いいです」 そう言って、僕は裾をまくりあげて座りなおした。お兄さんは、なんだか妙な顔をして僕を見つめていた。まったくねぇ…、浴衣なんて、どーでもいいじゃないか。


400円のトンカツの味は格別で、地獄から一転しての天国だ。
2階へ行き、ベッドに横になると、ほどなく眠ってしまった。




  ………………………………………………………………




 
8月23日の朝刊。 昨晩は四国で台風の被害が出たようだった。




8月23日。 一夜が明けた。
ここの部屋は狭いが、窓はある。そこから、道路がよく見えた。…台風はどうなっている? 雨は降っておらず、空は、どちらかと言えば晴天に近かった。しかし、風が相当激しく吹いていたのが、窓越しにでもよくわかった。この店のあるところは、日坂という地名だった。

 




さて、名古屋まであと150キロである。


店を出て、自転車で走り始めたが、強烈な向かい風に閉口した。ペダルを踏んでも踏んでも、なかなか前に進まない。早くくもキレた僕は、自転車で名古屋まで走るのをあきらめた。


「ヒッチだ。 ヒッチをしよう…」
一人だけでヒッチなど、したことがなかったけれども、どうしても、今日中に名古屋まで行きたかったのである。


いつのまにか、僕は25日に帰ることを自分で決めていた。そのためには、今日名古屋で泊り、明日は京都まで行くのが条件だ。明後日の25日に、大阪の自宅に帰ろう…。
もう、そう、決めてしまったのである。車に乗って、名古屋まで行くぞぉ。 


が〜〜〜〜〜ん。


道路沿いに食堂があり、比較的広い駐車場に、何台かの車があった。たぶん、いま食堂に入って食事をしている客たちの車であろう。荷台が空っぽのトラックが1台、目に入った。ナンバープレートを見ると、名古屋ナンバーである。これだ。 これから名古屋へ帰る車だ。 これに乗せてもらうのだ。


勝手にそう決めて、僕は自転車を車の横に止め、地面に座り込んだ。


しばらくして運転手と助手らしい男の二人連れが、こちらに歩いてきた。僕は立ち上がり、「すみませ〜ん」と声をかけ、事情を話した。案の定、名古屋へ帰る車だった。僕がひと通り話し終えると、
「…それで、ここでずっと待っていたの?」
と一人が言い、二人して顔を見合わせてから、運転手らしいほうが、
「じゃぁね、高速道路の料金を半分払ってくれるんなら、乗せてあげるよ」
そう言った。
もちろん僕に異存はなかったので、話はすぐにまとまった。助手らしい若い方が、自転車を荷台に上げるのを手伝ってくれた。


高速道路、というのは、東名高速道路のことである。今ではわかりきった話だけれども、僕はそういう高速道路があるとは、そのときには、まったく知らなかった。車でヒッチ、と言っても、車も国道1号線を走るものだと思っていた。


後からわかったことだけど、この東名高速道路は、この年に全面開通したというから、このときは、まだ珍しかったのだ。名古屋と神戸を結ぶ名神高速道路は、すでに4年前に全通していた。


その東名高速道路を、「3人」で、名古屋に向かった。


浜名湖サービスエリアだ。景色がいいから、ここで休憩しよう」
運転手がそう言って、浜名湖の見える駐車場へ車を入れた。浜名湖サービスエリアには、沢山の人たちがいた。
「どうだい。記念に写真を撮ってやるよ」
運転手はそう言って、記念撮影をしてくれ、飲み物も買ってくれた。この二人は、なかなか親切な人たちだった。


ところで…
台風はどこへ行ってしまった?

 





 
「新名所」 の浜名湖サービスエリアで。 
みんな、ここで休憩するらしい。




車は再び高速道路をどんどん飛ばし、またたく間に名古屋が近づいた。
「両親を大切にしなくちゃなあ」
などと、運転手は、何を思ったのか、顔に似合わないことを言う。そして、驚くべき速さで車は名古屋に入り、一般道路に出た。


「で、名古屋はどこで泊るんだい?」 
と聞かれたので、ユースホステルに泊りたい、と言うと、地図を調べて、その建物の前まで送ってくれた。
「それじゃぁな」 
と、運転手と助手は、窓から手を振って去って行った。

ユースホステルは、空いていた。となりのベッドに、丸坊主頭の高校生のサイクリストがいた。僕が自転車で北海道まで行って来たと知ると、急に礼儀正しくなり、
「先輩、先輩」 とまつわりついてくる。
「先輩が一番よかった場所はどこでしたか?」とか、
「先輩はどうみても、自転車で北海道まで行った人には見えませんね」
などと、矢継ぎ早に話しかけてくるので、も〜疲れてしまった、っつーの。


食後のレクリエーションでは、集会室でトランプのババ抜き大会があり、トランプや花札に強い僕は勇んで挑戦したけれど、惨敗に終わった。優勝したのは小学生の子どもだった。
「お兄ちゃんは、弱いんだね〜」 
と、その子どもにからかわれた。
「いいえ、わざと負けてくださったのよ」 
と子どもの母親がたしなめる。

ううぅぅ。 僕は、手を抜いていない。 
必死で戦ったのだ。

が〜〜〜〜〜ん。 





78 箱根越え

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第77回



長い長い箱根の坂道をエッサエッサと…






毎年1月2日と3日に行われる、東京箱根間往復大学駅伝競走、いわゆる箱根駅伝は、お正月には欠かせない楽しみの一つである。東京の大手町をスタートして、2区鶴見、3区戸塚、4区平塚、そして5区が小田原から箱根山頂・芦ノ湖までの山登り。片道合計110キロ近くの距離を、5人の選手が5時間半余りで走り抜く。中でも圧巻は、5区の箱根の山登りだ。標高差775mを、一気に駆け登る。

箱根駅伝のテレビ中継を見ていると、いつも、この自転車旅行を思い出す。


  ………………………………………………………………


8月22日。
平塚の海岸でテントを張って一夜を過ごした僕は、7時にそこを出た。駅伝で言えば、3区から4区の選手へタスキのわたる平塚である。そして、約1時間、その第4区の区間をペダルをこいで、小田原に着いた。小田原は、駅伝の、5区への中継地点である。
時間も、平塚から小田原まで、約1時間だった。かなりの速度で走っていたはずだけれど、駅伝選手とほぼ同タイムだ。

  

  




  
 前方に小田原城




小田原駅で顔を洗い、歯を磨き、弁当を買って食べた。


箱根湯本までは、上り坂もなんとかペダルを漕ぐことが出来たけれども、その先はもうだめだった。自転車から下りた。そして、押した。



 



大平台から宮ノ下を過ぎると、道が分かれている。直進すれば強羅方面である。強羅(ごうら)、という地名に聞き覚えがあった。たしか、中学の東京への修学旅行の折、ここでも一泊したはずだった。この強羅方面へ行く道は、国道138号線である。国道1号線は、左へカーブしている。僕はこれからずっと、国道1号線を外すことなく進まねばならない。1号線は、そのまま大阪まで続いているのだから…。


小涌谷を通り、くねくねと曲がる上り坂をハアハア言いながら登る。


夏の暑い時期だというのに、マラソンの選手が何人も追い抜いて行く。ゼッケンを付けたりはしていないので、大会ではなさそうだ。しかし、体つきといい、軽快なフォームといい、レベルは高そうである。ひょっとして、箱根駅伝のための学生の夏合宿か何かかも知れない。次々と追い越して行くランナーの背中を見ながら、黙々と自転車を押す。よくこんなきつい上り坂を、選手たちはスイスイと走って行けるものだ。


福井県の峠や十和田湖周辺の急坂、北海道の数々の上り坂を思い出す。もう、箱根さえ越えたら、この旅行でのきつい坂道は終わりである。…そう、思いたい。息を切らせ、汗をたらたら流しながら、自転車を押し続ける…。




ここで余談を…。 
話は2年後である。


大阪の繁華街で、高校時代の同窓会が行われた。
その席で、ヒラタという、元応援団長をやっていた男が、
「いま、お前の顔を見て思い出したんやけど…」
と、僕の席にやってきて、こう言った。


「何年か前、クルマで箱根へ行ったとき…
向こうから、自転車を押して上がって来るヤツがいた。
ふとその顔を見たら、お前にそっくりやった。
小さい体も似ていたし、一瞬、お前やないか ? と思ったけど…。
まさかなぁ。 箱根みたいなところで、自転車を押しているって、
そんなわけなぁ、あるはずがないよなぁ … 」


元応援団長のヒラタは、そう言ってガハハと笑い、
「すまん、すまん。 つまらんこと言うたな。 気にせんといてや 」
と、向こうへ行きかけたので、
「それは、ほんまに僕やがな 」 と声を出したけれど、
元応援団長は振り向かぬまま、自分の席に戻ってしまった。 
世の中は、広いようで狭い。




「曽我兄弟の墓」 というところを通り、さらに上りは続く。くねくね坂がいっそう激しくなったあと、ようやく芦ノ湖が見えた。やれやれ…。 やっと着いたか。時計を見ると、小田原から、4時間かかっていた。駅伝選手がここまで1時間少しで走って上がるなど、人間業とは思えない。


ここから道は、下りになった。


芦ノ湖を見下ろすところに、箱根公園という看板が上がっていた。マラソンをしていた人たちも、ここがゴールのようであった。僕のうしろから、まだ何人かの選手たちが走ってきた。


前方に、沢山の女性が、道の両側に立ち、ぱちぱちと拍手をしている。拍手に迎えられて、走ってきた選手たちは次々にゴールインする。自転車で走っていた僕も、その拍手の中を通過した。同じ道なのだから、しようがない。もちろん、彼女たちの拍手は、僕に対してではなく、僕のうしろから走ってくる選手に送られていたものであったけれど…。

 



 

  芦ノ湖





箱根公園で休憩をした。
曇っているので、芦ノ湖はボヤけ、富士山は影も形も見えない。


滝廉太郎の 「箱根八里」 の碑があったので、通りがかりの人に頼み、写真を撮ってもらった。


  ♪ 箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず 〜


というおなじみの歌である。


しかしまあ、自転車で押して上がると、身に沁みてわかる。
箱根の山は、まさに天下の険、なのだ、と。


  
「箱根八里」 の碑の前で。




しばらく休憩して疲れを取り、さて、また出発だ。


道は一度は下ったはずだが、箱根公園を出発したら、また上りになった。午後1時過ぎに、やっと本物の頂上にたどり着いた。箱根峠だ。神奈川県と、静岡県の県境でもある。


1号線はこのまままっすぐ三島へ下りる。左に行くと、熱海、十国峠、という道路標識があった。ここからは、もう間違いなく、ずっと下り坂を走ることになる。


   
箱根峠。 向こうに見えるのは、これより静岡県の標識。




箱根峠から三島まで、怖いほど、延々と下り坂が続いた。両ブレーキを握りしめ、カーブではバランスを崩さぬようにして、緊張を緩めないように、どこまでも、どこまでも下り続けていると、やがて、肩や首がこわばり、腕がしびれてきた。とてもスリリングだったが、ぐたっと疲れてしまう坂下りであった。


国道1号線を、三島から沼津、清水へと走り続けた。







夕方、清水駅で休憩し、台風情報を詳しく知るために夕刊を買った。台風9号が接近しており、これから各地で天候が荒れ始める、とある。明日、8月23日の天気予報を見ると、日本列島すべて雨の予報である。これからめざす名古屋方面は、「風雨が特に強し」 とある。まったく、気分がふさぐ。


どうする?
僕は、悩んだ。
箱根の峠を乗り越えたと思ったら、次は台風の壁である。名古屋まで、まだ200キロもある。しかし、徹夜をして走れば、昼までに着けるかもしれない。台風が、いつ、どこへ上陸するのか、知らないけれど、それがやって来る前に、是が非でも名古屋へ着きたいものである。


今度こそ、徹夜で走ろう…。


徹夜で走り続けた茨城のだっぺの兄さんに、刺激されたこともあった。自分も夜を徹して走ろう…そう思って、東京の手前では張り切ったが、結局、夜の訪れとともに意気消沈してしまい、路傍にテントを張った。よ〜し。 今度こそ!


ここは清水港である。一代の侠客、清水次郎長の土地ではないか。そうと決めたからには、力の限りを尽くして、走ってみせよう。オトコじゃないか。


 ♪ 清水ぅー 港のぉ めいーぶーつはぁー ♪


意気高らかに鼻歌を歌って、僕は清水駅を出発した。






   

77 房総半島から江ノ島

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第77回



房総半島から三浦半島そして江ノ島





新宿の木村屋寮で2泊したあと、金子さん宅で1泊し、フクダさんの下宿では、木村クンと2人で、3泊もさせてもらった。僕はきょう、東京を発つことにしていた。結局、東京には、6泊7日のあいだ滞在したことになる。


大阪から来た友人の木村クンとは、フクダさんの寮の前で別れた。木村クンは、奈良のドリームランドでアルバイトをして、旅費を捻出し、念願の東京旅行に来たけれど、3泊4日では物足りない顔で帰って行った。これからもまだ旅が続く僕を、ちょっと羨ましそうにしていたっけ。


フクダさんと別れ、5日ぶりに新宿の木村屋寮に戻ると、
「いったいどこへ行っていたの? みんなで心配していたのよ」
と、寮のおばさんが、ほっとしたように僕を見た。
星さんたちも、仕事から帰って、部屋にいた。
僕を見て、
「よかったぁ。 どこかで行方不明になっちゃったのかと…」
と、笑った。何も連絡せずに心配をかけてしまったことを、ひとしきり反省する。


僕は、おばさんや星さんたちにお礼を言い、出発の準備をした。自転車を外へ出し、星さんに写真を撮ってもらった。
「気をつけてねぇ」 
と、おばさん。
「俺も、いつかは日本一周をやるからね」 
と星さん。


僕は1週間ぶりに自転車にまたがって、木村屋寮の人たちの見送りを受け、重いペダルを、久しぶりに漕ぎ出した。




  
 出発のとき。 木村屋寮の前で。


  ……………………………………………………………………


両親の古くからの知り合いで、大原さんという年配のご夫婦がいた。僕も、小学生の頃からよく遊んでもらったりしたのを覚えている。ご夫婦の息子さんが、結婚をして、千葉県の市原市に住んでいる。そして、先日大阪へ電話をしたとき、母がこう言った。


「大原さんご夫婦が、市原の息子さん宅に遊びに行っている。そこであんたと会いたい、と言っているので、市原へ寄るように」


そして、住所と電話番号を教えられたのである。
昨日、市原のお宅に電話をして、「明日行きます」と伝えた。
そんなことで、東京を出て、西ではなく東へ向かう僕なのである。


ラジオで高校野球を聴きながら、走った。引き分け再試合となった甲子園球場の決勝戦は、三沢高校の大田投手が、力尽き、松山商業が優勝した。


そして、メモを頼りに市原市の大原さんの息子さん宅まで走った。大原さんご夫婦と、僕より5、6歳年上の息子さんと、その奥さんとの4人に迎えられ、その日は市原泊まりとなった。




  
市原から金谷。 そして金谷のフェリー乗り場に自転車を放置して…。




大原さんご夫婦は、僕のために、千倉(ちくら)という保養地で、宿を予約したので、3人でそこへ行こう、と言ってくれた。宿、と聞いただけでうれしくなってくる。風呂に入れる。御馳走が食べられる。気持いい布団で寝られる。とまあ、それはいいのだけれども…。


千倉というのは、地図で見ると、房総半島のほぼ南端にあった。ずいぶん遠い場所だ。そんなところまで自転車で行って、また戻るというのはなぁ〜…。市原に自転車を置いたまま、いっしょに電車で行ってもいいけれど…。地図を見て、いろいろ考えた末、東京湾フェリーを利用することにした。


東京湾フェリーというのは、木更津市のずっと南のほうにある、金谷という港から、神奈川県の三浦半島へ渡るフェリーである。そこまで自転車で走り、あとは交通機関を利用して千倉へ行こう。で、ここへ戻り、自転車でフェリーに乗って三浦半島へ行けばいい。

そしてその20日の日。
大原さんご夫婦は市原から電車とバスを乗り継いで千倉へ行き、僕は自転車で金谷港へ行き、フェリー乗り場に自転車を放置したまま、必要な物だけバッグの中に詰め込んで、電車に乗った。自転車を放置した場所のそばに、鋸(のこぎり)山という山があった。山頂のあたりが、本当にのこぎりの歯のような形をしていた。


どこかの駅(記録になく、記憶にもない)で降り、バスに乗り換えた。それで千倉へ行くと、宿の近くのバス停でお2人が待ってくれていた。
 



 
金谷から千倉までは、電車とバスを乗り継いで行く。




千倉で贅沢な一夜を過ごし、翌21日の朝、僕は早く宿を出た。


「お母さんが、早く帰ってきてほしい、と言ってたよ」
そう言って、大原さんご夫婦は、バス停で僕を見送ってくれた。


金谷港に放置していた僕の自転車は、そのまま置かれてあった。


港から、12時20分発のフェリーに乗船し、三浦半島に渡った。立派な橋があったので、地図にある城ヶ島大橋だと思って撮影した。近づいて橋の名前を見ると、「三浦陸橋」と書いてあった。 城ヶ島大橋は、その先にあった。橋の通行料は20円だった。


油壺から鎌倉まで、下り道が多く、気持ちよく走ることができた。途中、葉山の売店で休憩したときに水筒を忘れてしまった。気がついたのは鎌倉に着いてからだった。もう遅い。


鎌倉駅でスタンプを押したあと、さて出発しようとすると、上空でゴロゴロっと雷が鳴った。音だけで、雨が降ってきたわけではないけれども、いい気分はしない。旅も終盤だが、せめて残りの数日は、晴天の下で走りたい。ラジオを聴いたら、また台風が近づいているとのことであった。


江ノ島を過ぎたところで、日が暮れ始めた。


平塚付近で海岸への方に入り、浜辺でテントを張った。




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金谷港。 ここから三浦半島に渡る。




フェリー乗り場の近くで。 自転車についている水筒は、葉山で失くしてしまった。


 
三浦半島に着いてから撮る。 この場所がどこなのか、よくわからない。


 
城ヶ島大橋。ここを渡るのに、自転車は20円の料金がいる。














76 夢の後楽園球場

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第76回



子どもの頃から憧れていた巨人軍、そして後楽園球場





初めて後楽園球場へ行き、巨人・大洋戦のナイトゲームを見た。
後楽園は87年(昭和63年)まで巨人のメッカだった。
(88年からは東京ドーム)。




8月17日。 旅行に出て、ちょうど二ヶ月が経った。
前日、気分が悪いといって早くに寝た木村クンはすっかり元気を取り戻し僕たちは、今日も 「おのぼりさん」 の一日を過ごした。


「今日も泊ってくれたらいいからね」
フクダさんはそう言って、僕たちを送り出してくれた。


霞ヶ関ビルに行って、きょうは35階まで上り、そのあと浜松町からモノレールに乗って羽田空港を見学に行った。このモノレールは、5年前の昭和39年、東京五輪の時に開通した。東海道新幹線も、同時期に開通し、夢の超特急などと騒がれた。東京、というより日本中が、東京五輪を機会に生まれ変わった。


僕が東京へ中学校の修学旅行に来たのは、昭和38年である。五輪の1年前だから、モノレールも新幹線も 「準備中」 だった。僕たちは、夜行列車で東京を往復したのである。だから、このとき、モノレールに乗れたのはとてもうれしかった。もっとも、新幹線に乗ったのは、ずっと後のことであったけれど…。


夜は新宿歌舞伎町で食事をして、フクダさんの下宿へ戻り、僕と木村クンは、そこでまた泊めてもらった。

    





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翌日も、僕たちは東京見物で午前中を過ごした。


午後、新宿から電車に乗っているとき、後楽園球場が見えた。僕はその瞬間に、すばらしいアイデアを思いつき、木村クンに提案した。
「後楽園や! そや、いまから、巨人の野球を見に行こう!」
僕は関西の人間だけれども、根っからの巨人ファンである。 後楽園球場は、テレビの中では何百回も見てきたなじみの球場だったし、1965年(昭和40年)から4年連続日本一に輝く無敵のジャイアンツと、長島茂雄王貞治の「ON砲」は 僕らの最高のヒーローであった。木村クンも、僕ほどではないが、巨人ファンだったはずだ。


「でも、あそこはいつも満員みたいやで。入れるんか?」
と木村クンは、意外と冷静な反応をみせる。
「行ってみないと、わからんやろ」と僕が反論する。
「それより何より、きょう、試合があるかどうかが問題やで」
ちょっと言葉に詰まる。
「…う〜ん。それも行ってみんと、わからんやろ」
「アホな。 そんなもん、行かんかってわかってるがな」
「ほんなら、きょうは試合があるんか、ないんか、どっちや?」
「そら知らんわ。 そこまで調べて来てへんがな」
木村クンはあきれたように僕を見た。
「だいたい、後楽園球場いうたら、予約せな入られへんらしいで」


確かに、巨人の試合のチケットは簡単に手に入らないと言われていた。
でも、こんなチャンスはめったにない。
とにかく行こう、と木村クンを無理やり誘って水道橋の駅で降り、後楽園球場へ行ったところ、「やったぁ!」 と飛び上がった。今日はここで巨人・大洋戦のナイトゲームが組まれており、しかも、内野席の当日券もちゃんと販売されていたのである。
「どうや。 案ずるより産むが易しやろ」
僕は、ちょっと得意になって、苦笑いしている木村クンを見た。


そんなわけで、僕は憧れの後楽園球場の一塁側内野席に陣取った。


午後7時、巨人・城之内、大洋・山下の先発で、試合が始まった。大洋とは、現在の横浜ベイスターズである。近畿大学出身の大洋・山下の好投の前に、巨人打線は沈黙し、8回を終えたところで、2対0とリードされていた。あ〜、もうダメ、と思った9回裏に、ドラマは待っていた。高田、森永、王の連続安打で、巨人は1点差に追い上げた。そして、ここで4番の長島が打席に入った。 


長嶋茂雄


子どもの頃から、世界中で一番好きだったスポーツ選手である。僕は声も嗄れんばかりに声援を送る。長島は、僕の目の前で、期待に応えて同点打を放った。
「うおぉぉぉ〜!!」
僕は、木村クンに抱きついて、ぴょんぴょん跳ねた。


試合はそのまま延長戦に入り、エース堀内まで救援に出てきて、結局、延長13回まで戦って、両者譲らず、引き分けとなった。僕としてはこれ以上ない展開を、存分に味わうことができた。なにしろ、13イニングも試合を見ることができたのである。そのうえ、ダッグアウト前まで行って、長島と王の写真も撮れたのだから。




   
   目の前に長島がいる。 夢みたいだった。



王もいる。右の、グラウンドボーイの後ろにいるのが川上監督だ。




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ところで、この日、別の球場で、野球史上に残る出来事があった。
プロ野球ではなく、甲子園球場での高校野球である。


この8月18日は、高校野球の決勝戦が行われていた。
青森県三沢高校愛媛県松山商業が、延長18回の死闘を繰り広げ、0対0の引き分けとなって、明日に再試合が行われることになったのである。


三沢高校と言えば、この自転車旅行で青森を通ったとき、ヒッチハイクで乗せてもらった三沢のトラック運転手から、
「うちの三沢高校の大田投手というのはすごいんだよ」
そう言われたことを、よく覚えている。


  そのときの記事です
      ↓
[http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070906
 



その三沢高校が、知らない間に始まっていた高校野球大会で、知らない間に、東北勢として史上初めて決勝戦へ進出し、そこで引き分け再試合という、歴史的な激闘を演じていた。


後楽園球場をあとにして、フクダさんの下宿へ戻ったとき、
「遅かったねェ。 どこへ行ってたの?」 とフクダさんが尋ねた。
「巨人の野球を見ていて、延長戦になったから…」 と僕が説明したら、
「延長戦? ふ〜ん。 今日の高校野球とおんなじだね、
 すごかったんだよ、三沢と松山商の試合は…」
そう言って、延長18回を一人で投げぬいた三沢高校の大田投手を、
「ハンサムだしさ、こりゃ、日本中の人気者になるよ」
と、大いに褒め上げていた。


去年の夏、早稲田実業駒大苫小牧の決勝戦で引き分け再試合があり、実に37年ぶりのことだと、マスコミで大きく報じられていた。その37年前というのは、この日のことだったのである。




   

翌日のスポーツ新聞。 写真は長島が同点打を放ったところ。
見出しに 「プロもおつきあい」 と書いてあるのは、高校野球
延長18回引き分けのことにひっかけたものである。
さすがの報知新聞も、この日の一面は巨人でなく、高校野球だった。