81 旅の終わり

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第81回






大阪府の標識が見えた。




雨の中を両親に見送られて大阪を出発したのは、6月17日だった。その日が、梅雨入りの日であった。 それから70日が経っていた。


8月25日の朝。
僕は京都の親戚の家を出て、大阪府柏原市へ向かった。
今日が、最終ランである。


長かった自転車旅行も、今日で終わる…。そう思うと、さまざまにこみ上げてくるものがあったけれども、無事に帰って来られたことが、旅の価値の全ての前提になる。
そう思って、僕は、走りながら、神様に感謝していた。


空は曇っていたものの、雨が降りそうな気配はなかった。交通量の多い京都市内を抜けて、国道1号線に出た。


1号線を南に進み、木津川を渡ると、やがて峠にさしかかった。この峠は天王山の近く、京都府大阪府を分ける洞ヶ峠である。これまでに、各地で出合った峻烈な急坂や山間の隘路に比べると、こんな峠は峠とも言えぬ。まあ、なんというか、まるで遊園地である…なーんて思い、旅行中、苦労した幾多の峠越えをふり返った。


洞ヶ峠の上りきった所に標識があがっていた。 


      大阪府 
      枚方市


あぁ。 とうとう、大阪へ戻ってきたのだ。
翼よ、あれがパリの灯だ。
自転車よ、あれが大阪府の標識だ。(なんだ、それは?)


京都、滋賀、福井、石川、富山、新潟…と、僕はこの旅行で、数多くの都道府県を走り、いくつもの 「県境」 を越えてきた。ここが、最後の「県境」であった。


洞ヶ峠を越えて、大阪府枚方市に入ってから、僕の足どりはさらに軽快になり、やがて、大阪市内に入ってきた。


そのとき…。
突如、すぐそばで、けたたましく車のクラクションが鳴った。のけぞるようにそちらを見ると、大きなトラックである。運転席で、よく知らない顔がこちらを向いて手を振っている。


「おーい!」


大声を上げて、僕に手を振る人って、一体誰なんだ…
またクラクションが鳴り、トラックは速度を落として僕の後方に下がり、どうやらそこで停車した模様である。僕も自転車を止めて、後ろを振り向いた。


トラックの運転席から飛び降りてこちらに駆け寄ってきたのは、なんとなく見覚えのある顔であった。
「あれ? あぁ、あの顔は…」 
と僕が思ったとき、相手も、
「オレ、オレ。 覚えている? 函館でいっしょだったろう」


そうだ。 あの、函館のユースホステルに泊ったときの、同部屋の男性だった。あのときは、部屋の全員が、一人旅で、夜遅くまで話したものだ。いま、トラックから降りてきた男性は、京都から来ていたはずだ。会社で喧嘩をして辞めて、むしゃくしゃしていたので北海道へ旅行に来た。…そう言っていた失業中の男性だった。現在は就職をして、大型トラックの運転手の仕事についているようであった。


その時の記事です ↓
http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070628


彼は、僕を見て、
「やっぱりなぁ。そうじゃないかと思ったよ」 と、僕の全身を眺めながら、
「まだ、あの旅行が続いているのかい?」 と、半信半疑の体で、尋ねた。


僕たちは何分間か立ち話をした。京都の彼は、名残惜しそうに、トラックの運転席に戻り、発車した。


僕は再び自転車に乗って大阪市内を走った。
やがて懐かしい信貴・生駒山脈が目に飛び込んできた。


僕が住んでいるのは、大阪市から南に外れた柏原市というところである。信貴・生駒山脈を挟んで、奈良県と隣接している。僕はもう、そのすぐ近くまで迫ってきた。


「近くまで来たら、家に電話してちょうだい。
近所の人たちも、あんたを出迎えたいと言ってるから」


昨日、京都から電話をしたとき、母にそう言われていた。
そろそろ、電話をしなければならない。

家まであと10分ぐらいのところで、僕は自転車を降りた。
そして、公衆電話の前に立ち、自宅の番号を回した。
1回コールするかしないかのうちに……
母のけたたましく弾んだ甲高い声が、受話器に響いた。


                    〜 完 〜