62 啄木・賢治・光太郎

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第61回



啄木の渋民村を出て、盛岡、そして宮沢賢治高村光太郎の花巻へ




8月7日。
青森方面へ行く水沢市の男性と、盛岡方面を目指す僕とは、方角が反対である。
僕が先に出発し、彼に見送られるかたちになった。
瞬間的な出会いと別れとが、めまぐるしく繰り返される旅行である。


昨日、歌碑の前で、もう一人、サイクリストに会った。
その人は、1日200キロを走って北海道を目指している、と言っていた。
1日の走行距離としては、僕の倍である。
サイクリングでも、いろいろな人がいる。
とてもではないが、そういう旅行は、僕には出来ない。


昼前に、盛岡駅に着いた。
盛岡駅前に、ドーンと啄木の歌碑があり、駅のスタンプにはその歌が添えられていた。



      

    












盛岡駅で休憩したあと、郵便局の本局へ行き、お金を2,000円下ろした。
それから、局留めの郵便物を受け取った。
札幌のサイクリストである加藤さんから、手紙が来ていた。
加藤さんには、危ういところを助けてもらったいきさつがある。
7月、稚内へ行く途中の郵便局で、現金を引き出そうと思ったが、
その日がちょうど日曜日で、結局引き出すことが出来ず、
ほとんど文無し状態になっていたところに、加藤さんら二人連れが通りかかった。
わけを話して3,000円貸してもらい、窮地を脱することができたのである。


その後、二人と一緒に稚内まで走ったのであるが、いま受け取った手紙の中に、
その時に写してもらったカラー写真が、何枚か入っていた。
稚内付近の道路上で撮った写真や、日本最北端の碑の前で撮った写真など。
真っ黒に日焼けした自分の顔が、別人のように見えた。


 
その写真の1枚。


これまで、フィルムが1本終了するたびに自宅へ郵送していたから、
この旅行で、自分が写っている写真を見るのは、これが初めてである。
あぁ、こんな感じなのか〜、と、その写真を眺めて、何となく心が波立った。
もう300枚近くなっているだろう旅行の写真を、家に帰ってゆっくり眺めたい…。
そんな思いが、突き上げるように僕の気持ちを揺さぶりはじめた。
またちょっと、ホームシック症候群、である。
やれやれ…。





盛岡から40キロ足らずで、花巻市に入った。










花巻駅のパンフレットに載っていた宮沢賢治自筆原稿。



花巻は、空港が近いせいか、上空を、飛行機が頻繁に飛び交っている。
駅で、200円のトンカツ定食を奮発したあと、近くにいた観光ガイド嬢に、
きょうの目的地である高村光太郎の山荘の場所を尋ねた。
そしてついでに、
「そこでテントを張りたいと思うのですが、大丈夫でしょうか?」 と訊いたら、
周囲は何もない山野だから、どこにでも張れると思う、という答えが返ってきた。
駅前の店でパンなどを買い込んだあと、山荘へ向かった。
しばらく舗装された道が続いたが、やがて左方向を示す矢印のある標識が立ち、
 高村山荘 4キロ
と書かれていた。
左に曲がると、道が急に細くなり、舗装もなくなった。
やや登りの道をエッサエッサと進んでゆくと、「大田村山口」 という標示があった。
古びた小学校の前を通り越してから、歩いていた人にまた道を尋ね、
教えられた寂しげな道を走ってゆくと、やがて行く手に高村山荘が現れた。


来たなぁ。 とうとう。


高村光太郎の山荘を訪れることは、自転車旅行の大きな目的のひとつでもあった。
目の前の、ごくありふれた民家にしか見えない山荘であったが、
僕にとっては、これまで何度も写真で見てきた、心の宝物のような建物である。


きょうは、ここでテントを張って野宿をする。
ぶるん、と、身体が震えた。