61 啄木の碑に集まる人たち

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第61回



さまざまな一人旅をする人たちとの出会いがあった







 … 8月6日。まだ僕は岩手県の渋民村にいる。


渋民村の啄木の歌碑の前で、羽入さんを見送ったあと、
僕は、東屋に集まっていた何人かの観光客の輪の中に入った。


僕と同年代ぐらいの若い者たちばかりだったが、大半は一人旅のようであった。


片方の足に障害を持つ男性がいた。
彼は、そのハンデにもかかわらず、自転車旅行をしていた。
明治大学の学生で、実家の岩手県水沢市から、ほぼ片足で自転車をこいできた。


茨城県から来た柴田さんという男性は、風まかせの旅がらす、という風体だったが、
何を思ったのか、僕と一緒に写真を撮らせてくれと言い、他の人に頼んで、
啄木歌碑の前で、2人並んで 「記念撮影」 をすることになった。
その後、柴田さんは僕の自宅へその写真を送ってくれ、それがきっかけとなって、
今も、ずっと年賀状のやりとりが続いている。
たった一度会っただけの人だが、今年で、その年賀状は37通になる勘定だ。


ほかにも、阿寒湖のユースホステルで同室だった東京都杉並区の男性とも、
今でも年賀状の交換が続いている。
この人とも、わずか一度会ったきりなのに、37年間の交流がある。
年賀状と言うのは、近ごろは虚礼廃止のヤリ玉に挙げられたりしているが、
この、わが国の伝統的習慣が存在するおかげで、成り立つおつき合いもあるわけで…。


観光客の中に、一人、国士舘大学の学生だという風変わりな人物がいた。
みんなを相手に、一人で 「演説」 を繰り広げていた。
その装束が変わっていた。
サングラスをしてハカマをつけ、下駄ばき、という姿なのだ。
この格好で、一人旅をしているのだそうである。


彼は九州生まれの九州育ちで、「日本人としての誇りを友に」 旅をしていると言う。
ハカマの下は下帯、つまり 「ふんどし」 しか身につけていないそうだ。
「俺は九州男児だからな。パンツやステテコなんて、しゃらくさくて、履けるものか」
まわりの空気がバリバリっと裂けそうな大声で、九州男児は気炎を上げた。


大和魂というものはなぁ、まず服装から叩き込まなければならんのだ。 
だからオレはハカマを履いているのだ。 これは借り物だけどな。 いや、
そんなこたぁどうでもいいが、靴も履かないぜ。 下駄だよ、下駄。
どうだ。 ハカマと下駄には、日本人の心が流れているんだ。
オレは、日本男児だからなぁ 」


身振り手ぶりを交えて、鼻息荒く弁舌をふるうのであった。

 
客の中に3人組の女性がいて、その中の一人が、
「でもねぇ、下駄だと、歩きにく〜い、ってことはないの?」
と問いかけると、「大和魂」 クンは、途端に、でれでれ〜んとなって、
「いやぁ、まあ、それは、歩きにくいけどね。足をぐねったりするわねぇ…」
と、相好を崩し、短い髪の毛を撫でながら、イヒヒヒ〜、と笑った。


僕は物珍しさから彼を写真に撮り、住所を聞いて、後日彼の下宿先に送った。
彼とも、37年間、年賀状を交換している。 … というのはウソである。
写真を送ったきりで、以後のおつき合いはない。 
だいたい、僕はこういう、ミもフタもない人物、というのは、苦手である。
やっていることが露骨すぎ、少なくとも外見上は、何の情味も含蓄もない。


それに比べて、水沢市から来た片足の不自由な男性は、寡黙ではあったけれど、
終始穏やかな表情を浮かべながらも、全身から静かな闘志が、にじみ出ていた。
こっちこそが真の日本男児ではないのかと、ハカマ男 を見ながら、そう思ったりした。





ハカマ男 。
中央うしろに写っているのが、水沢の明大生。
僕と明大生の2人は、この休憩所で、野宿をした。




時間が経ち、歌碑の前からほとんどの人影が消え、日が暮れた。
僕と、水沢市の男性の二人だけが、その場所に残った。
東屋のベンチの長椅子に、寝袋を敷き、上半身裸になって中に入った。
水沢市の男性も、横のベンチで、同じように寝袋に入った。
僕たちは、2人とも、ほとんど口を開かなかった。
2日間、八戸のツカハラ時計店の2階の布団でぐっすり眠ったせいか、
この夜は、なかなか眠れなかった。
隣の人はどうだろう? と、時々そっと盗み見したが、暗くてよくわからなかった。