19 室蘭・登別そしてバス

   自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第19回






洞爺湖〜室蘭〜登別。そこからバスに…。


7月5日。
朝食後、もう一度、昭和新山へ行く。今度はつっかけ草履ではなく、ちゃんと登山靴を履いて、昨日登れなかった雪辱を果たさなければならないのである。山のふもとに到着すると、僕は姿勢を前屈みにして、勢いをつけ、一気呵成に山をよじ登った。上に行くほど臭気が強く、足元の岩はボロボロと崩れるし、地面も相当熱くなっている。油断ならない。しかし、僕はかなり上まで登った。「これ以上登らないように」 という注意書の標識がある場所も越えて登ってきたのだが、下を見ると、十数人、小学生たちがぞろぞろと、なんと先生に引率されて同じように標識を無視して上がってきている。先生は「へこたれるなぁ」 とみんなに檄を飛ばしている。すごい先生もいるものだ。


しかし、下るのは大変だった。ずるんずるんと靴が滑り、尻餅をつき、両手をブレーキ代わりにして転げながら降りていくのである。まわりを見ると、スカート姿でハンドバッグを持ち、登っている女性もいたのには驚いた。案の定、下りになるとキャアキャア騒いでいる。友達同士お互いに手を握り合って絶叫したりして、だけどそれはそれでとても楽しそうではあった。僕は一人きりなので、転げてギャァと悲鳴を上げたところで、誰もふりむいてくれない。面白くもなんともないわけで…。   


午前10時ごろ、昭和新山ホテルを出た。いや、出ようとした。
「ちょっと、ちょっと」 と僕を呼び止めたのは、昨夜の同室の一人だった。青森から来ている千葉ちゃんというまだ18歳の男性である。千葉ちゃんは、僕に、今日の泊りはどこか、と訊いた。
「登別にしようと思ってる」 と僕は彼を見上げた。千葉ちゃんは背が高い。
「オレも登別へ行く。ユースホステルの予約、取っておいてほしいんだ」
千葉ちゃんは体を折り曲げて、髪をなでた。このポーズが癖のようだ。
「ええよ」 と僕は引き受けて千葉ちゃんと別れた。僕は自転車だけど、お互いの旅程から見て、僕のほうが早く着くはずだった。 


洞爺湖に別れを告げ、伊達へ出て、室蘭へ行く。 室蘭は港町だけど、市内は起伏が激しい。
北海道と言えばなんとなく平坦なイメージがあったが、ここまでの経験では、どこも坂道が多い。自転車にとっては迷惑な地勢である。


室蘭駅でパンを4つ買って食べ、ぼんやりと1時間半を過ごす。







室蘭駅を出て、登別へ向かう。 リュックを背負って道路を歩いている男を、僕が自転車で追い抜いた。30分ぐらいすると、また同じ男が前を歩いている。もう一度、彼を追い抜いた。しばらくして、1台の車が僕の自転車を抜いて行ったが、その車の助手席に、さっきのリュックの男が乗っていた。窓越しに僕を見て、ちょっと手をふるしぐさをした。僕もつられて中途半端に手をふった。楽なようには見えているが、ヒッチハイクの旅も、なかなか大変なんだろうと思う。


登別駅から温泉街までの8キロは上り坂であった。金福ユースホステル、というところへ行き、2人分の宿泊を申し込み、千葉ちゃんが到着するのを、バス停まで出向いて行って待った。何台目かのバスの中から、大きなリュックを担いだ千葉ちゃんが降りてきた時はちょっと安堵したけれど、それ以上に千葉ちゃんは喜んだようだった。
「本当に予約して、待ってくれていたんだね」
そう言って、表情を少し崩した。


夜、千葉ちゃんと2人で地獄谷を見たあと、290円を払って熊牧場に入ったが、牧場とは言っても動物園の一角と同じようなもので、その中でまったくやる気のない熊たちがゴロリと寝そべっているだけのつまらない風景があるだけだった。
宿泊客で賑わう目抜き通りの一角で、アイヌの熊祭り、というのもやっていた。毎晩行われているらしい。唄を歌うアイヌの長老。踊るアイヌの女たち。なんとなくしんみりしている。
神聖な祈りらしきものを捧げたあと、木につながれていた小熊をめがけて、若い男が矢を放つ動作をしたときにはドキリとしたが、よく見たら矢はおもちゃで、先にゴムがついていたので安心した。まさか、毎晩小熊を射殺すはずはないものね。
「儀式」 はどうということのないまま幕を閉じた。
アイヌの人たちは、踊りを終えたらさっさと客の前で普段着に着替えた。なんだかあまりに事務的に儀式を消化している感じで、興ざめである。こういう見世物より、100円で買ったトウモロコシのほうがはるかに味わいがあった。


夜、部屋で青森の千葉ちゃんの話を聞いた。彼はこのあと数日は北海道を旅行した後、道東の計根別というところへ行き、そこの牧場で働く予定だという。
「自転車で、計根別へ寄ってくれる?」
千葉ちゃんの言葉に、僕は 「行くよ」 と約束した。



   
   計根別は僕の予定コースからは少し外れていたが…



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翌6日。午前中、千葉ちゃんと登別温泉の地獄巡りをし、バスを停めたりしてクッタラ湖や大湯沼を見てまわった。 クッタラ湖は小さいが、十和田湖を思わせるような、気品に満ちた美しい湖であった。

   
 

   


ユースホステルから自転車を押し、千葉ちゃんが乗るバス停までいっしょに歩いた。千葉ちゃんとも、これでお別れだな、と思っていると、また昨日と同じように、
「今日はどこに泊るの?」 と訊いた。
「今日? まぁ白老ぐらいやね」
と僕は答えた。
「だったら、また予約しておいてほしいんだ」
「白老ユースホステルをか? ええよ。でも、また僕が先に着くのかな?」
千葉ちゃんは、それには答えず、
「頼みがあるんだけど…」
と、言いにくそうに、例によって体をかがめ、髪をなでた。
「あのぉ。自転車に乗りたいんだ」
「自転車? 僕の自転車にか?」
「うん。サイクリング、好きなんだ。昨日から乗りたくて乗りたくて…」
「乗りたいって、どこまで乗りたいの?」
「白老まで…」
「2人乗りは無理だよ。やめとこう」
「じゃなくて、オレが自転車に乗ってさ。そちらさんがバスで行くわけ。リュックを担いで」
「僕がキミのリュックを担ぐ?」
「そう。バスの切符はあるからさ。リュックには大事なものもみんな入れとくから」
「………」
「大丈夫だって。乗りたいんだよ。ねぇ」
「………」
こいつ、まさか、自転車に乗ったままどこかへ消えてしまったりしないだろうな。…と、まぁそうは思わなかったけれど、いちおう疑っておく必要もある。
しかし、これも成り行きである。バスに乗れたらラクでいいじゃないかと思うことにした。
「…そうか。まぁいいけどね。チェーンが外れやすいから気をつけるんだよ」
千葉ちゃんは、僕に大きなリュックと、その中から引っ張り出した周遊券を僕に渡して、
「じゃぁ、オレ、先に行くよ」
と、うれしそうに僕の自転車にまたがった。
「うわっ。サドル、低いねェ」などと余計なことを言うものだから、いきなり荷物の重みでふらついていたけれども、すぐにバランスをとりなおし、国道へ向かって走り始めた。


なんだか不思議な感じで自転車を見送ったあと、僕は白老方面に行くバスを待った。
「あれ? あなた、自転車はどうしたのですか?」
乗り込んだバスの中で、女性の旅行者が、僕を見て驚いたふうだった。登別の、同じユースホステルに泊っていた人だった。
「はぁ。乗りたいという人がいたもんで…」


登別から白老までは、バスで約40分である。車の少ない国道を、バスは疾走する。千葉ちゃんのリュックを座席の横に置き、僕は窓の外の移り変わる景色を眺めていた。やがて、前方に自転車が見えた。間違いなく僕の自転車である。千葉ちゃんが、体を揺らしながら自転車を漕いでいる。思わず僕は立ち上がって窓ガラスを思い切り引き上げた。バスが自転車を追い抜いて行く。
「お〜い!」 
と僕は窓から身を乗り出し、大声をあげて手を振った。
うつむいていた千葉ちゃんが、顔を上げた。
なんだか泣きそうな顔をして、僕を見つめた。
僕はもう一度、「お〜い」 と叫んだ。
千葉ちゃんは真剣な表情のまま、一度頷いて、また下を向き、ペダルを漕いだ。


僕はバスの最後尾へ移動して、どんどん遠ざかっていく千葉ちゃんの姿を窓から見守った。直線が続く道路で、自転車は粒のように小さくなり、やがて見えなくなった。   



 千葉ちゃんのリュックを担いで…