76 夢の後楽園球場

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第76回



子どもの頃から憧れていた巨人軍、そして後楽園球場





初めて後楽園球場へ行き、巨人・大洋戦のナイトゲームを見た。
後楽園は87年(昭和63年)まで巨人のメッカだった。
(88年からは東京ドーム)。




8月17日。 旅行に出て、ちょうど二ヶ月が経った。
前日、気分が悪いといって早くに寝た木村クンはすっかり元気を取り戻し僕たちは、今日も 「おのぼりさん」 の一日を過ごした。


「今日も泊ってくれたらいいからね」
フクダさんはそう言って、僕たちを送り出してくれた。


霞ヶ関ビルに行って、きょうは35階まで上り、そのあと浜松町からモノレールに乗って羽田空港を見学に行った。このモノレールは、5年前の昭和39年、東京五輪の時に開通した。東海道新幹線も、同時期に開通し、夢の超特急などと騒がれた。東京、というより日本中が、東京五輪を機会に生まれ変わった。


僕が東京へ中学校の修学旅行に来たのは、昭和38年である。五輪の1年前だから、モノレールも新幹線も 「準備中」 だった。僕たちは、夜行列車で東京を往復したのである。だから、このとき、モノレールに乗れたのはとてもうれしかった。もっとも、新幹線に乗ったのは、ずっと後のことであったけれど…。


夜は新宿歌舞伎町で食事をして、フクダさんの下宿へ戻り、僕と木村クンは、そこでまた泊めてもらった。

    





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翌日も、僕たちは東京見物で午前中を過ごした。


午後、新宿から電車に乗っているとき、後楽園球場が見えた。僕はその瞬間に、すばらしいアイデアを思いつき、木村クンに提案した。
「後楽園や! そや、いまから、巨人の野球を見に行こう!」
僕は関西の人間だけれども、根っからの巨人ファンである。 後楽園球場は、テレビの中では何百回も見てきたなじみの球場だったし、1965年(昭和40年)から4年連続日本一に輝く無敵のジャイアンツと、長島茂雄王貞治の「ON砲」は 僕らの最高のヒーローであった。木村クンも、僕ほどではないが、巨人ファンだったはずだ。


「でも、あそこはいつも満員みたいやで。入れるんか?」
と木村クンは、意外と冷静な反応をみせる。
「行ってみないと、わからんやろ」と僕が反論する。
「それより何より、きょう、試合があるかどうかが問題やで」
ちょっと言葉に詰まる。
「…う〜ん。それも行ってみんと、わからんやろ」
「アホな。 そんなもん、行かんかってわかってるがな」
「ほんなら、きょうは試合があるんか、ないんか、どっちや?」
「そら知らんわ。 そこまで調べて来てへんがな」
木村クンはあきれたように僕を見た。
「だいたい、後楽園球場いうたら、予約せな入られへんらしいで」


確かに、巨人の試合のチケットは簡単に手に入らないと言われていた。
でも、こんなチャンスはめったにない。
とにかく行こう、と木村クンを無理やり誘って水道橋の駅で降り、後楽園球場へ行ったところ、「やったぁ!」 と飛び上がった。今日はここで巨人・大洋戦のナイトゲームが組まれており、しかも、内野席の当日券もちゃんと販売されていたのである。
「どうや。 案ずるより産むが易しやろ」
僕は、ちょっと得意になって、苦笑いしている木村クンを見た。


そんなわけで、僕は憧れの後楽園球場の一塁側内野席に陣取った。


午後7時、巨人・城之内、大洋・山下の先発で、試合が始まった。大洋とは、現在の横浜ベイスターズである。近畿大学出身の大洋・山下の好投の前に、巨人打線は沈黙し、8回を終えたところで、2対0とリードされていた。あ〜、もうダメ、と思った9回裏に、ドラマは待っていた。高田、森永、王の連続安打で、巨人は1点差に追い上げた。そして、ここで4番の長島が打席に入った。 


長嶋茂雄


子どもの頃から、世界中で一番好きだったスポーツ選手である。僕は声も嗄れんばかりに声援を送る。長島は、僕の目の前で、期待に応えて同点打を放った。
「うおぉぉぉ〜!!」
僕は、木村クンに抱きついて、ぴょんぴょん跳ねた。


試合はそのまま延長戦に入り、エース堀内まで救援に出てきて、結局、延長13回まで戦って、両者譲らず、引き分けとなった。僕としてはこれ以上ない展開を、存分に味わうことができた。なにしろ、13イニングも試合を見ることができたのである。そのうえ、ダッグアウト前まで行って、長島と王の写真も撮れたのだから。




   
   目の前に長島がいる。 夢みたいだった。



王もいる。右の、グラウンドボーイの後ろにいるのが川上監督だ。




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ところで、この日、別の球場で、野球史上に残る出来事があった。
プロ野球ではなく、甲子園球場での高校野球である。


この8月18日は、高校野球の決勝戦が行われていた。
青森県三沢高校愛媛県松山商業が、延長18回の死闘を繰り広げ、0対0の引き分けとなって、明日に再試合が行われることになったのである。


三沢高校と言えば、この自転車旅行で青森を通ったとき、ヒッチハイクで乗せてもらった三沢のトラック運転手から、
「うちの三沢高校の大田投手というのはすごいんだよ」
そう言われたことを、よく覚えている。


  そのときの記事です
      ↓
[http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070906
 



その三沢高校が、知らない間に始まっていた高校野球大会で、知らない間に、東北勢として史上初めて決勝戦へ進出し、そこで引き分け再試合という、歴史的な激闘を演じていた。


後楽園球場をあとにして、フクダさんの下宿へ戻ったとき、
「遅かったねェ。 どこへ行ってたの?」 とフクダさんが尋ねた。
「巨人の野球を見ていて、延長戦になったから…」 と僕が説明したら、
「延長戦? ふ〜ん。 今日の高校野球とおんなじだね、
 すごかったんだよ、三沢と松山商の試合は…」
そう言って、延長18回を一人で投げぬいた三沢高校の大田投手を、
「ハンサムだしさ、こりゃ、日本中の人気者になるよ」
と、大いに褒め上げていた。


去年の夏、早稲田実業駒大苫小牧の決勝戦で引き分け再試合があり、実に37年ぶりのことだと、マスコミで大きく報じられていた。その37年前というのは、この日のことだったのである。




   

翌日のスポーツ新聞。 写真は長島が同点打を放ったところ。
見出しに 「プロもおつきあい」 と書いてあるのは、高校野球
延長18回引き分けのことにひっかけたものである。
さすがの報知新聞も、この日の一面は巨人でなく、高校野球だった。