15 津軽・太宰治の生家

    自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第15回



憧れの斜陽館にやって来たが… 


高校の頃から太宰治が好きだった。
太宰を愛読する人は多い。僕らの世代では圧倒的人気を誇っていたと言っていい。読むというより、耽り、溺れ、かぶれる、というのが太宰の読者に多く共通する傾向のようである。僕もそのひとりだった。いろいろな面で、僕はこの小説家に、かなり影響されてきた。


太宰治は、津軽半島の金木町に生まれ育ち、その生家は 「斜陽館」 という名の旅館になっていた。


西十和田ユースホステルを出発するとき、ご主人からきょうの宿泊予定を訊かれた僕は、この日は、旅の大きな目的のひとつである斜陽館を訪れ、できたらそこに泊まりたいと思っている、と話した。するとご主人は、「おぉ、そうでしたか!」 と急に笑顔になって僕の手を握り、実は斜陽館の主は自分の恩師であり、自分も太宰文学に傾倒しているのだ。君がはるばる大阪から太宰を訪ねて来てくれたことは何よりである。私もこれほど嬉しいことはない、と熱っぽく語り、
「では斜陽館の主人に私から電話をしてあげましょう」
とさっそく受話器を取ったのである。
そして、電話に出た相手に、
「きょう、○○君といって大阪から自転車で旅をしている青年がそちらへ行きます。太宰の熱心な愛読者です。よろしく迎えてあげてください」
と言ってくれたあと、自分の名刺を取り出し、その裏に紹介状を書いてくれたうえ、
「よかったら、読んでください」
と、小野某氏の著書 「太宰治入門」 という本までいただいた。


少し離れたところにいた奥さんは、僕がロビーを出ようとしたとき、
「これ、お弁当のおにぎりよ。お昼に食べてね」
と、僕にずしりと重い包みをくれた。
このユースホステルには、何から何までたいへんお世話になってしまった。


6月最後の日。晴れた朝に、奥さんと2歳のお嬢ちゃんに見送られて、わずか1泊ではあるがさまざまな思い出が刻み込まれた西十和田ユースホステルを出た僕は、津軽へ、そして北海道へと、再びこの旅行への意欲を掻き立てられるのを感じながら、昨日とは打って変わって快適な下りのコースとなった国道を、黒石に向かって勢いよく走り始めた。


黒石を通り過ぎ、弘前へ向かう。
昼前に、弘前市内に入った。
ここはもう津軽である。
太宰治弘前高等学校に籍を置き、この弘前の城下に3年いた。

弘前の街の真ん中で、馬が荷車を引いて車道を歩いている風景を目にした。牧歌的というか、なかなか情緒がある。


弘前駅へ寄ってから、駅から西へ少し走って弘前城へ行った。太宰の名作「津軽」によると、桜の頃の弘前公園は日本一、と田山花袋が折り紙をつけてくれたそうだ。だが、桜が咲いていなくても、この弘前城と周りの公園はとびきり美しい。公園のベンチに座って城を眺めながら、宿の奥さんが作ってくれたおにぎりを食べた。久しぶりにピクニック気分である。





  スタンプもリンゴのかたち




  弘前城




弘前から五所川原まで、沿道の景色は見渡すかぎりリンゴの木で埋まっていた。リンゴの実はまだ小さいように見えていたが、すべて丁寧に紙袋に包んであった。昨日の弘前大学の学生の話によると、収穫期になって寮に持ち込まれるリンゴなどは1個1円ぐらいだそうである。


五所川原から太宰のふるさと金木町へと向かう。五所川原は 「津軽」 で、太宰が金木町と同じぐらい馴染み深いと述懐した彼の叔母が住んでいた土地だ。走り進むうち、金木町6キロ、との看板があったので、写真に撮る。




  五所川原からの 「リンゴ街道」







金木町に入った。
町の中心部らしいところまで来たので、斜陽館を探した。斜陽館は、小さな町の大きな名所だから、なんの苦労もなく探し当てられるだろうと思っていたが、なかなか見つからない。子どもを呼び止めて訊いたら、「知らん」 と言う。なんだか拍子抜けがしたけれども、一軒の小さな雑貨店で尋ねたら、「あぁ。それならもうひとつ向こうの町さ」 と教えてもらい、また走り出す。すぐに民家が途絶え、田園や雑地が広がった。


遠くに町並みが見えてきた。どうやら、これが金木町の中心地だった。道路を駅の方角に曲がると、すぐ右手に斜陽館が見えた。とうとうやってきた。津軽の、太宰の生家、斜陽館…。


「こんにちは。お邪魔します」
玄関で声を上げると、病身のような細い体つきの女が、黙って中から出てきた。顔色も悪く、生気がない。家の中がうす暗いので、よけいに陰気な感じがする。女は 「…何か?」 という訝しそうな目で、僕を見た。あこがれの斜陽館へはるばるやってきた、という僕の感慨など、歯牙にもかけてくれそうにない顔だ。僕は、かなり戸惑った。しかし、考えてみたら、ここは、旅館として営業しているところなのだ。そして、僕はお客なのである。何も遠慮することはない。…とは思うけれども、ここはやはり普通の旅館ではなく、太宰の生まれ育った家なのである。複雑な思いが、一瞬のうちに頭の中を錯綜する。


「泊まりに来ました。今朝、西十和田ユースホステルのご主人から電話があったと思いますが、大阪から来た○○です」
女は表情ひとつ変えずに黙って立っている。聞いているのかいないのか…?
「紹介状ももらってきています。これです」
と、僕は西十和田のご主人からいただいた名刺を、その女に渡した。女は僕からそれを受け取り、ちらっと目をやってすぐに僕の手に戻し、
「1700円です。それでよかったら上がりなさい」 
と言ってまた黙った。
そのそっけないことと言ったら、言葉にあらわしようもないほどである。
「はぁ…。いいです。泊まらせてもらいます」
僕はそう言って、靴の紐を解いた。
がっかりした。 まさかここでこんな思いをしなければなならないとは…。


旅館、とは言っても、そのために改築したというものではないので、中は普通の家と変わらない。広いけれども、暗くて湿っぽい。外見は堂々たる造りである。津軽地方屈指の名士だった津島家の威光をしのばせる赤いレンガづくりの建物は、なんだか裁判所みたいなものを想像させる。しかし、その荘厳な外見に比べて、中へ入ってみるとおそろしいほど薄暗く、陰湿である。僕は案内されるまま、狭い階段を2階へ上がり、小さな一室に通された。物置か何かだったのだろうと思われるような、窓ひとつない狭苦しい部屋だった。
やれやれ…。
さっきから、ため息が出てばかりである。










僕は部屋に荷物を置いたあと、外へ出た。町には、小さいがマーケットもあった。そこで、菓子を買った。津軽鉄道金木駅の中に入り、ベンチに座って菓子を頬張る。
小さな駅の待合室には中学生ぐらいの集団がワイワイと騒ぎながら電車を待っていたが、僕はかなりの時間、そこに座って中学生たちの話す言葉を耳にしていたが、最後まで、何をしゃべっているのか、ちんぷんかんぷんで、さっぱりわからなかった。


旅館に戻り、風呂に入る。1人以上は入れないような小さな風呂である。まるい椅子に座ると、その椅子はグシャっとへしゃがり、僕は床にドスンと尻餅をついてしまった。どうも、何から何まで、信じられないような不具合である。体を洗っていると、急に戸が開いたので何事かと思ったら、2人の年配の男が争うようにしてこちらを覗き込み、 「ほう。これが風呂ですか。狭いものですな。ほう…、ほう…」 と戸を開けたまま、まるで僕がいるのに気がつかないような興奮ぶりで互いに感心しあっている。見るだけ見てしまったら、僕には会釈ひとつせず、バタンと戸を閉めて出て行ってしまった。まったくもぅ。人が風呂に入っているというのに…。失敬な。


この年配の男たちは、僕が風呂から上がって座敷で粗末な食事をしているときにも、あちらこちらを、動物園の檻の中のクマのように、うろうろと探検していたようである。もう少し静かにまわればよいものを、いい歳をしていながら2人とも傍若無人を絵に描いたようなふるまいであった。こんな調子だと、彼らは便所までやってきそうだったので、僕は便所に入っても、開けられないよう、戸の取っ手を握ったまま用を足さなければならなかったのである。


隣の部屋に泊まっていたのは一人旅をしている若い女性だった。廊下ですれ違ったとき、短い立ち話をしたが、彼女は明日、小泊に行く、と言った。小泊とは、津軽半島の北西にあり、太宰が3歳から9歳のときまで母親代わりに育ててくれた奉公人のたけが住んでいた土地である。「津軽」 では、壮年作家となった太宰が、小泊へ、30年ぶりにたけに会いに行く場面がクライマックスであり、とても感動的である。


 「修治だ。」 私は笑つて帽子をとつた。
 「あらあ。」 それだけだった。笑ひもしない。


この場面は、何度読んでも胸が熱くなる。


ともあれ、その女性は、明日小泊に行く。僕は、ここへ着くまでは、明日、十三湖から小泊のほうへ自転車で走ってみようと思っていた。だから、斜陽館には2泊するつもりをしていた。しかし、この旅館には入ってきた瞬間から失望した。女将は冷淡だし、部屋は汚れていて狭く、夕食は驚くほど粗末である。そのくせ、料金は高い。2泊もすると、これからの予算がかなり苦しくなる。太宰治津軽文学紀行は、この女性みたいに、それだけのために旅をするのがいい。また、改めて来ることにしよう。
夜、手紙を6本書いて布団に入り、明日は北海道に渡ろう、と決心した。明日から7月だ。ちょうど、区切りもいいじゃないか。





  斜陽館の中。長い廊下が続く。





  2階から庭を見る。



*斜陽館は平成8年に旧金木町が買取り、
 現在は 「太宰治記念館・斜陽館」 になっているそうだ。