64 智恵子展望台
自転車の旅 〜 昭和44年 夏 〜 第64回
高村山荘の裏手にある智恵子展望台に登り、夜はテントで
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
高村光太郎の詩集。
特に「智恵子抄」は、十代の頃からの愛読書だった。
高村山荘の背後の小高い山へ登るのが、次の目標である。
標識に従って、智恵子展望台をめざした。
山道に入り、草深い道を腰をかがめて登って行くと、しばらくして視界が開けた。草むらの空間に立っている木に、「智恵子展望台」 という文字が彫られていた。
山荘の説明板には、この展望台のことが、こう書かれている。
智恵子展望台は、故人(光太郎)が好んで散策した丘陵で、
夜陰たまたまこの岡に立ち、亡き夫人の名を呼びしと、
里人の云い伝えたことからこのように名づけられた。
「智恵抄」 は、僕にとっても、忘れ得ぬ一冊である。
十代の頃に初めて読んだその詩集は、40年経った今でも、
脈々と、熱く、心の中を流れ続けている。
この時も、小高い丘陵に立ち、亡き智恵子を偲ぶ光太郎の心情に思いを寄せると、胸が張り裂けるような感慨に襲われ、まぶたが熱くなってくるのだった。
「 案内 」 高村光太郎
三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三畝、
いまはキヤベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまはりは栗と松。
坂を登るとここが見晴し、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでゐる突きあたりの辺が
金華山沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯ういふところ好きでせう。
八月の陽が、ゆっくりと傾き始めた。いつまでもぼんやりと過ごしていたかったが、間もなく夕闇が迫ってきそうである。ここは山の中であり、街灯ひとつあるわけではない。早くしないと、テントの設営ができなくなる。僕は急いで山道を下り、自転車を移動させて、テントを張れる場所を探した。山荘のそばにあった光太郎の詩碑の前に自転車を止め、ちょうどテントを張りやすい場所が見つかったので、そこに決めた。
どうにか、明るいうちにテントを張り終えて一段落し、パンを出して食べた。物音ひとつしない完璧な静寂が、周囲を包んでいた。もちろん、記念館も閉館したし、もうこのへんには、誰一人としていないはずである。
日が暮れるとともに、あたりは漆黒の闇となり、まったく何も見えなくなった。テントの中の明かりを消すと、首を外に出しても、目を閉じているのと同じ状態で、見事に何も見えず、100パーセント真っ暗闇の世界であった。 月も星も出ておらず、どこが空でどこが山でどこが地面なのかも、判然としない。
夜中、トイレに行きたくなって外へ出た。 しかし…、闇の中では勝手が悪い。右も左も、前も後ろも、真っ暗である。 自分の手足さえ、見えないのだ。 「いつもの体勢」 に、なかなか入れない。
〜 ふ〜む。 困った。 しないわけにはいかないし… 〜
目と鼻の先にカモシカが立っていても、熊が寝転んでいても、わからない。
見えないところへ放尿する…というのは、かなり勇気のいることであることがわかった。… などと、妙なことに感心している場合ではなかった。「よ〜し」 と一呼吸入れ、僕は、目標の定まらぬおしっこを、闇に飛ばした。
全てが死に絶えたような闇と静寂の中で、手探りでテントの中にもぐり込み、寝袋にくるまっても、なんだか落ち着かず、ほとんど眠れぬ一夜を過ごした。
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僕がテントを張った前にあった 「雪白く積めり」 の詩碑は、 昭和33年 5月15日 に除幕されたそうである。それから毎年、この日に 「高村祭」 というのが開催されている。
下の写真は、今年の高村祭。花巻市のホームページに掲載されていた。この写真の場所は、当然、詩碑の前のはずである。 僕は、この辺でテントを張っていたのであろうか。
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