65 雨ニモ負ケズ…

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第65回



花巻は宮沢賢治のふるさとでもある






高村山荘のふところに抱かれての野宿。 そういえば、格好いいが…。
夜中に、雨が降った。人家から遠ざかった山林で、雨の中、たった一人でテントで夜を明かすのも、これが高村山荘でなければ、臆病な僕などには、とても出来るものではない。寝袋の中に頭まですっぽりうずめ、体を折り曲げて身を守る体勢で横になり、早く眠りに入ろうと、目を閉じたものの、ほとんど眠れなかった。


テントの外が明るくなり、雨も上がってから、安心感とともに眠気が襲ってきた。朝方に、ようやく数時間、熟睡することができた。


8月8日。今日は母の42歳の誕生日だ。
10時に高村山荘を後にした。山道を下り、再び田園に囲まれた道を、花巻市街めざしてゴトゴト走っていると、夏の盛りだというのに、肌寒い風が顔を撫でる。昨夜の、あの何とも言えぬ寂寥感は、すでに薄れつつある。朝は、心の中も、外の世界も、すべて真新しく甦らせてくれる。


花巻駅を過ぎ、国道4号線に戻り、南下して間もなく、左手の道に入る。


しばらく走ったところで、宮沢賢治の 「雨ニモ負ケズ」 の碑の前に着いた。北上川が、すぐそばに流れていた。横に、「よくまあ、おいでくださいました」 という看板があった。そして、「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はない」 と書いてあった。


碑の前には花筒があり、花が一杯添えてあった。何かの本に、この碑の下には賢治の遺骨が埋められていると書かれていた。(遺骨ではなく、遺髪だったかもしれない)。もしそうだったとしたら、この碑は、賢治の墓碑でもある。


碑文は、「雨ニモ負ケズ…」 の後半部分が彫られている。
高村光太郎の書になるものである。


野原ノ (松ノ) 林ノ陰ノ小サナ茅ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ
……


この碑が出来た後、高村光太郎は、四ヵ所、刻字に字句の脱落があることを知った。たとえば、「野原ノ」 と 「林ノ」 の間に、 「松ノ」 が抜けていた。それら四ヵ所に、光太郎は自らノミをふるって、抜けていた字句を追加したという。ちょうど、原稿用紙のマス目の枠外に、あとから字を書き加えたような感じである。そういうところを見ていると、ますますこの碑に、親しみを覚えてくる。




     
「野原ノ」 の右に 「松ノ」 が刻まれている。
見難くてすみません。





     




また自転車に乗り、4号線に戻り、ひた走る。
北上駅に着いて小休止したあと、再び出発。
空模様が気になった。


明るかった空が、徐々に薄い雲に覆われ始め、その雲がだんだん厚くなり、あれれれ、と思っているうちにポツポツと降り出してきた。
「またか…」
うんざりして空を睨むと、雨はそれをあざ笑うかのように勢いを増し、本降りになってきた。きょうは顔を洗っていなかったので、石鹸をあわ立てて顔に塗り、走りながら、ちょうどシャワーを浴びるように雨水を浴びて顔を洗おう…そんなことを思ってみたが、もちろん、思ってみただけである。本当にそんなこと、するわけアリマセン。


雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ 坂道ニモ負ケズ 野宿ニモ負ケズ 空腹ニモ負ケズ…サウイフモノニ ワタシハナリタイ


ゼンゼン サウイフモノニ ナレナイ ワタシデス …


びしょ濡れになって、水沢駅に到着した。駅で顔を拭き、待合室で休憩する。ラジオでは、台風8号が接近している、とか言っている。しかし、天気予報では、きょうはこんなに雨が降るようなことは言っていなかったのである。ダマされたような気分だ。もっとも、天気予報にはこれまでもずっとダマされっぱなしだけど…。


30分ほど経って、雨は小降りになった。 
チャンスだ。 行こう。







気合を入れなおして、水沢駅を出発する。細かい雨が降り続く中、ただひたすら南へ南へとペダルをこぐ。平泉に着き、そこで見つけたステーションホテルへ飛び込んだ。幸い、空きベッドがあった。はぁ〜〜〜〜〜〜〜ぁ。一息、ついた。


一部屋に二段ベッドがいくつも並ぶ寄宿舎のような宿だったが、
僕はベッドに座ると、着ていたものを全部脱ぎ、洗濯機を借りて洗い、
さっぱりとしてホテルを出て、近所にあったそば屋に入った。
そのそばの、おいしかったこと…。
筆舌に尽くしがたい味、とはこのことか。
まぁ、もっともこういう状況だと、何を食べてもそうなっただろうけど…。
そば屋を出るとき、その店の看板を見た。


芭蕉そば」 という名前の店だった。


そういえば、花巻駅で、「賢治もなか」 というのがあったっけ。
そう思ってまわりを眺めると、その向かいに、 「西行うどん」 という看板があった。





この日はここで泊まった。