光市母子殺害事件


   不可解な弁護側の “ 意見書 ”



5月24日。光市母子殺害差し戻し控訴審の初公判があった。


事件の概要については、よく知られている。
新聞報道等をまとめると、次のようなことになる。


1999年4月14日。当時18歳の少年(福田孝之・現26歳)が山口県光市の社宅アパートに強姦目的で押し入り、居間に侵入して弥生さん(当時23歳)に襲い掛かったが、激しい抵抗を受けたため、頸部を圧迫して窒息死させたあと姦淫し、傍らで泣き叫ぶ生後11ヶ月の長女夕夏ちゃんを床にたたきつけるなどした上、首をひもで絞めて殺した。そして居間にあった財布を盗んで逃走したが、4日後に逮捕された。


検察側は、「本件は、強姦目的で主婦を殺害した上、姦淫し、生後11ヶ月の乳児まで殺害したもので、その慄然たる犯行はおよそ少年特有の非行行為とはかけ離れている。その責任と量刑判断において、成人と少年を区別すべき合理的根拠はない」として、犯人に死刑を求刑した。


しかし1審の山口地裁は「未熟で矯正の余地がある」と無期懲役を言い渡し、2審の広島高裁もその判決を支持した。これに対して検察側が上告した結果、昨年6月、最高裁は、2審の無期懲役の判決を「量刑不当」として破棄し、広島高裁に対して差し戻しを命じたのである。


そしてその差し戻し控訴審の初公判が、一昨日の24日に広島高裁で行われたのである。次の切り抜きは、昨日25日産経新聞朝刊に掲載された弁護側の意見書の要旨である。読んでみて、唖然とした。






この意見書を読むと、まるで小説のようなストーリーで、なんとも主観に満ち満ちた「真相」であることに、それこそ慄然とする。安田好弘という死刑廃止運動に熱心な主任弁護士の、執念とも取れる文章である。


それにしても、この意見書は、「本件はおよそ性暴力の事件ではなく、母子一体ないし母胎回帰の事件である」とか「被告にとって姦淫行為は死者に生をつぎ込んで死者を復活させる儀式だった」とか、あるいは乳児の首を絞めて殺したのは「兄としてのせめてもの償いの印として、紐を被害児の首に巻いて蝶々結びで止めた」と、リボン代わりだったことを主張するなど、理解に苦しむ内容である。


犯人が友人に宛てた手紙には、自分は法律上の“少年”だから死刑にはならず、すぐに出てこられる、と計算ずくの側面を吐露し、また、遺族は調子に乗っている、などと、夫の本村洋さんを侮辱する文章などが書かれていた。本当に反省しているとは到底信じがたい言論だが、そんな犯人を、こうした心理小説まがいの意見書で弁護するのだから、弁護側は「はじめに死刑廃止論ありき」と批判されても仕方がないのではないか。どんな事件でも構わないから、死刑廃止を訴える手段としてこのようなストーリーを前もって何通りも準備している、と思いたくなるほど、無理なこじつけが目立つ。


死刑廃止論については、こういう事案があるたびに喧々諤々の議論が交わされているけれども、死をもって償うしかない罪もあるだろう。
8年間、本村さんは犯人に極刑を、と訴え続けた。
長い長い裁判に、やっと一筋の光明が見えつつある。
最高裁が2審の無期懲役判決を「量刑不当」として破棄したからには、最終的に死刑判決が下されることは、ほぼ間違いないと思われる。


それにしても、本当に日本の裁判は長い。
長い上に、心理小説のような面妖な弁護側の意見書などが出る。
おまけにこの安田弁護士は、以前、公判に何やかやと理屈をつけて欠席したりして、裁判を遅延させる行動をとった人物だ。


意見書の内容も、弁護士たちの対応も、普通の感覚からはちょっと外れすぎているように思う。それと同時に、裁判の仕組みというものを、もう少し一般の人々にわかり易くする必要があるのではないか、とも思う。



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犯人の福田孝之が、1審の無期懲役判決後に友人へ出した手紙の中で、判明している部分を以下に掲載する。


▼知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君


▼私を裁けるものはこの世におらず


▼無期はほぼキマリ、7年そこそこに地上に芽を出す


▼犬がある日かわいい犬と出会った。…そのまま「やっちゃった」…これは罪でしょうか


▼(被害者に対して)『ま、しゃーないですね今更。ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。』





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