5 富山

  

     自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜



サイクリング友達ができる


6月21日。
ベッドで気持ちよく眠っているところへ突如「雷鳴」が轟いた。
「ヨロレイヨロレイヨロレイ〜ッホ〜」
ムニャムニャと寝ぼけている暇もなく、部屋中を揺るがすようなヨーデルの大音響に、僕はびっくり仰天して飛び起きた。なんだ、この騒々しさは。
「ヨーロレイレイレイレイレイレイレイレイ〜」
あやうく二段ベッドから転げ落ちるところであった。
いくらユースホステルだからといっても、早朝からこんな起こされ方はないだろう。安い宿だと有り難がっていたらこの始末である。ひどいことをする。


「それじゃ。車に気をつけて走ってね」
玄関で、東京の日大生と大阪のアニキと長崎の女性の3人は、自転車に荷物を積んでいる僕にそう言いながら、仲良く連れ立って出て行った。いっしょに金沢を観光するそうである。
いいなぁ。羨ましい。



金沢ユースホステル前。東京の日大生(左)と、大阪のアニキ。




僕はまたひとり旅に戻り、自転車に乗った。
卯辰山を下りきったところで、サイン帳をベッドに忘れたことに気がついた。福井駅で買ったサイン帳は、福井駅金沢駅でスタンプを押していた。もういちど卯辰山を上って行くのか、あっさりあきらめるのか…。昨日は「卯辰山の上り坂なんぞは子どもの遊園地だ」と威勢のいいことを思ったわりには、あっさり後者を選んで富山方面に向かって出発した。スタミナの浪費は避けなければならない。


途中で見つけた売店で、300円出して新しいサイン帳を買った。


石川県と富山県の県境は、また峠である。どうもこの国は、峠を越えなければ次の県に入れないような仕組みになっているのだろうか。 坂道はつらい。 重い荷物をくっつけた自転車をウ〜ン〜ウン唸りながら押して行くなんてちっとも格好よくないじゃないか。


その峠は、倶利伽羅峠と言った。
源義仲が、牛の角にたいまつをつけて平家軍を倶利伽羅の谷へ追い落とした場所としてよく知られている。



倶利伽羅峠。 向こうに見えるトンネルを抜けたら富山県




峠で休憩をしていると、金沢方面から自転車の旅行者がひとり上がってきた。
彼は日焼けした黒い顔から真っ白な歯を覗かせて、僕の横に座り、
「きついねぇ」 と汗をぬぐった。
「ほんまにねぇ」と僕。
そして、名前と出身地を言い合った。
鈴木君といって、千葉市に住む僕と同世代の男子である。
愛知県の豊橋を出発点として、四国、中国、九州をまわり、
山陰、北陸を通り、新潟から本州を縦断して千葉に帰るという。
つまり西日本一周だ。
東日本を一周する僕とあわせたら日本一周になるね、とふたりで笑った。


    
   鈴木君。




今夜は富山のどこかでテントを張るという鈴木君といっしょに走ることにした。トンネルを抜けると富山県だ。


高岡の駅ビルで100円定食を食べ、ビルを出て自転車にまたがったとたんに交通整理中のおまわりさんに「ガンバってねぇ」と激励される。


富山駅では、パーン! と僕のそばではじけたような音がしたので、
「うぅ! パンクしたかぁ」と肝を冷やしたが、
見るとうしろで女の子の風船が破裂した音だった。
ほっと胸をなで下ろす。僕はこれでも筋金入りの機械オンチで、自転車がパンクしても修理できないのである。



  ユースホステルの裏は松林。




富山駅から約10キロ離れた、海辺の景色が広がるところに、富山ユースホステルがあった。
鈴木君と相談して、ユースの裏庭の松林にテントを張り、食事だけをユースホステルにお願いすることにした。

高校生がドヤドヤと10人ほどテントへやってきた。彼らは方言が強くてよく聞き取れなかったが、どうやら自分たちは高岡市内の高校生で、サイクリングクラブに所属している、きょうはその合宿でここへ来ているのだ、と言ったようである。そして、高校生たちは、僕らの自転車旅行の体験談を話してくれろ、と口々にせがんだ。


まだスタートしたばかりの僕に話す材料はなかったけれども、鈴木君は、2ヶ月間もの旅経験を背景に、駅で寝ていておかまにサウナに入れてもらったり、食事に誘われたりしたこと、長椅子に寝ていて地面へ落ちたこと、ランプのろうそくが顔に落ちた話、寝ていて犬に顔をなめられた話などを、ボソボソと語るのであった。


高校生たちはそんな話に熱心に聴き入り、やがて食事の時間が来たので、残念そうに建物に戻って行った。僕と鈴木君も、食事をするためユースの食堂に行き、テーブルについた。同じテーブルに若いアメリカ人のカップルがいた。2人とも箸を使いにくそうにしているので、
「フォークを取ってきてあげましょうか?」
と言ったら、
「我々は箸を使うのが楽しいのだ」
というようなことを、男のほうが言った。


男は、料理や調味料をいちいち指さして 「何というのだ?」 と尋ねるので、僕はそのつど、「わさびだ」 「とうふ、というものだ」 と日本語で答える。「イカだ」 と言うと、男は急に立ち上がり、両手をヒラヒラさせてイカが泳いでいるしぐさをし、「イカァ!」 と叫んでガハハハハハハと笑い転げた。何がおもしろいのだろう?と、僕と鈴木君はお互いの顔を見合わせた。


隣に座っていた顔中そばかすだらけの白人女性は、イカには手をつけず、ご飯もほとんど残していた。それなのに、「オイシイ!」と感極まったように言い、男と手をつないで廊下の向こうへ消えて行った。
やがてふたりは、丸いゴミ箱のフタのようなものを持ってふたたび裏庭に現れ、そのフタをキャッチボールのように交互に投げ合っていた。


「あれ、なんやろね?」 と僕。 
「さぁ、見たことないものだね」 と鈴木君。
「外国人のしよることは意味わからへんなぁ」と僕が言うと、「はい、意味わかりまへんなぁ」と鈴木君は、ニコリともせず僕の大阪弁を真似た。


アメリカ人アベックが遊んでいたものは、あとからフリスビーだと知った。僕は、ごみ箱のフタを円盤のように投げる遊びをこのときに初めて見た。今、これを書きながら 「フリスビー」 をインターネットで検索したら、「日本への移入は1969年(昭和44)です」 とある。なぁんだ、その69年といえばこの年ではないか。ひょっとすると、日本にフリスビーを移入したのは、この 「イカ・ガハハ男」と「そばかす娘」のカップルそのものだったのかも知れない。そんなこと、ないか…。


夜は鈴木君と同じテントで寝た。


鹿児島で買った、というからもう1カ月も前のものと思われる干しイカをもらって、しがみながら、話をする。彼は自転車のスペシャリストという風からはほど遠く、自転車も普通の自転車だ。僕も、同じように、そのへんの安物の自転車で走っているのだから話がよく合った。鈴木君はパンクは3回したという。 そのほか、さしたる事故はない。


鈴木君から、何の気負いもない淡々とした口調で2ヶ月間の旅の話を聞くと、なんとなく僕にも勇気が湧いてきた。この旅行を、最後まで成し遂げられそうな、そんな勇気が少しだけ…。

がんばらなければ。