6 直江津

  

     自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜



直江津駅で一夜を明かす



6月22日。テントをたたみ、食堂で朝食をとったあと、鈴木君と僕は、高岡の高校生やその他の多くの泊り客に見送られて富山ユースホステル前を出発した。手を振る人たちの中に、昨日のアメリカ人アベックもいた。


黒部の駅で、ここから内陸を通って千葉へ向かう鈴木君と別れ、またひとり旅が始まった。 一人のサイクリストが、僕を追い抜いて行った。抜く瞬間、 「どこまで行くの?」 と声をかけられた。「北海道」 と答えると、 「日本一周かい?」 と聞いた。このあともよくそう聞かれた。自転車で日本一周している人は、かなりの数に上るのだと思う。僕も同じやるなら日本一周にすればよかったかも知れないが、最低4ヵ月間はかかりそうだし、東日本を走り終えていったん大阪へ戻ってまた西へ向かうという精神力は、僕には絶対にないであろうことはわかり切っていた。だいたい北海道へすら、本当に自転車で行けるのかどうか、今でもまだ不安を捨てきれずにいるというのに…。


国道8号をずんずん走る。


これまでで一番長く感じられた城山トンネルをくぐると、川にさしかかった。「境川」 という標識が立っていた。 この川が、富山県新潟県を分けているのだ。峠でもなんでもなく、平坦な県境であった。 何か得をしたような気分である。





 新潟県に入る。




空はどんよりと鉛色に滲み、今にも雨が降り出してきそうな様子である。日本海はどこまでも鈍く波立ち、見渡すかぎり陰鬱な帳(とばり)に覆われている。このあたりの海岸は 「親不知・子不知」 と呼ばれている。昔から北陸道最大の難所として名高く、波打ち際を通るときには、叩きつけるような激しい荒波にさらわれぬよう、親は子を顧る余裕なく、子も親を顧る余裕がないほど、いのちがけで越えなければならなかったという。

芭蕉の「奥の細道」 にも 「北国一の難所」 とある。





 親不知の像。

  



左に日本海が迫る。道路が海岸線にへばり付いているような地形なので、海岸と道路が、遥か前方まで見渡せる。空も海も、道路でさえも鬱陶しく感じられる風情である。
すべてが暗い。 ペダルを踏んでいても気分が塞ぐ。


親不知を過ぎ、糸魚川で休憩した。
午後2時半。
売店で食パンと牛乳を買い、防波堤に座って、灰色の海を眺めながら、京都で買った缶詰といっしょに食べる。







左手にずっと海を見て、ほとんど変化のない風景の中を、さらに数時間走り続け、5時に直江津の駅に到着した。小さな駅舎である。駅前のタクシー乗り場には 「史跡巡り」 として今年のNHK大河ドラマの 「天と地と」 の観光コースの案内があった。直江津駅から春日城跡など、上杉謙信ゆかりの土地を巡るのだ。タクシー料金は、小型1200円、中型1400円。いずれも所要時間は2時間、とあった。


駅で75円の立ち食いそばを食べた。売店には、 「景虎」 (謙信の幼名) とか 「春日山1級」 とかのラベルが貼られたお酒、 「天と地と」 や 「春日山城」 というオカキ、煎餅のたぐいが売られていた。謙信の置物などもたくさんあった。町の電柱には 「清酒謙信」 という看板がいたる所に掛かっていた。NHK大河ドラマ一色の直江津駅周辺だった。


ほかに泊まれそうな場所もなく、今夜はこの駅で野宿することに決めた僕は、小さな待合のベンチに座って日記を書き、知人や家族に手紙も書いた。孤独の辛さが身に沁みた。 


そんな気分の中で、僕は、人生の大きな転機となる決意をした。
出発の日に2人で写真を撮った彼女と、一緒に暮らしたい…。自分はまだ20歳の学生だけれども、大阪へ帰ったら、結婚を申し込もう…。そして、彼女への手紙で、「僕はある決意をしました」と書いた。

直江津駅の待合のベンチでそう心に決めたことが、以後現在に至る38年間の人生を決定付けた。高倉健の出演した「駅」という映画があったけれども、僕にとっての「駅」という人生のドラマがあったとしたら、それは「直江津駅」ということになる。その夜の駅での野宿は、記念すべき一夜になった。


11時ごろになり、寝袋を出してベンチに敷き、すっぽりと中に入った。駅員に何か言われるのではないか、と思ったが、ほかに浮浪者のような男がふたり、ごろりとベンチに寝転んでいたのも咎められる様子はなかったので、僕は目を閉じた。


夜行列車が停車するたびに、目が覚めた。







 直江津駅。思い出の駅だ。