34 網走へ 

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第34回




北海道で唯一の 「知り合い」 のいる網走へ…







7月19日。湧別派出所でぐっすり眠った僕は、眠っているうちにすべての疲労が体外へ発散して行ったかのようなすがすがしい朝を迎えた。荒井注に似たおまわりさんがこしらえてくれた玉子焼きと味噌汁の朝食はとても美味しくて、御飯を3杯お代わりした。残りの御飯で僕の昼食用に大きなおにぎりを握ってくれている荒井注さんの横で、僕が手帳に日記を書きつけていると、
「ほほう。きっちりと書いているんだね。じゃぁ、ここのことも日記に書くわけだ」
と、注さんは、一人でニコニコと頷いていた。


7時半。出発の支度を終え、御世話になったおまわりさんに何度も礼を言って派出所を後にした。


サロマ湖畔を走り抜け、常呂町に入ったところで、白老ユースホステルで意気投合した「WOC仲間」の一人フクダさんとばったり出会った。フクダさんは、北海道一周の自転車旅行をしている東京・明治大学の学生である。白老で別れてから、お互いにどんな旅をしてきたかをひとしきり報告し合ってから、フクダさんは、
「ボクが先に帰ることになるだろうから、東京へ来たときは下宿先へ寄ってくれたらいい。泊ってもらってもいいしさ」
そう言ってくれた。
僕は、「きっと行くよ」と、東京での再会を約束して別れた。

   


    

       
        白老ユースで (7月28日掲載分から)。
        右から2人目がフクダさん。





  
  サロマ湖
  この自転車旅行から22年経った1991年夏、
  ここで行われた「サロマ100キロマラソン大会」に出場した。
  サロマ湖は、自転車とマラソンで訪れた地、ということになる。
    
    




午後2時半、網走駅に着いた。
駅でスタンプを押した後、これから訪ねてゆく「古川製菓」の所在地を確認した。網走で北海道の名菓カニせんべいなどの製造業を営んでおられる「古川製菓」の古川さんは、僕の高校時代の恩師である「崑ちゃん先生」の奥さんの叔父さんである。「崑ちゃん先生」というのは、先生の顔がお笑い芸人の大村崑に似ているところからきたあだ名である。稚内で崑ちゃん先生からのハガキを受け取ったときにも書いたけれども、この自転車旅行の前に、先生の奥さんから網走の叔父さんのもとへ、僕が行ったら泊めてあげてください、という連絡をつけてもらっていたのだ。つまり、まあ言ってみれば、ここのお家が、間接的ではあるが、僕にとって北海道で唯一の「知り合い」なのであった。


網走市海岸町、というところにある古川家は、すぐにわかった。
家と工場らしき建物とが隣合わせになっていた。


自転車から降りると、工場のほうから僕と同世代の男性が顔を出して、アッという表情をして、
「○○クンですね? 大阪から来た…」と問いかけた。
僕が返事をする前に、その男性は、
「○○クンが到着したよぉ!」と、建物のほうを向いて大きな声を出した。
すると、さっそく工場から叔父さんらしき人が出てきて、
「おぉ、来られたかい。遠いところをよくまぁ自転車でねぇ。これはこれは…」
そして、すぐ後ろからその奥さんらしき人が続き、
「いやぁ、本当にちゃんとここまで来られたんですねぇ。よかったわぁ。病気しなかった? 疲れたでしょう?」
そのあと、後方から黒ブチのメガネをかけた小太りの女の人が躍り出てきて、
「なんとまぁ、真っ黒に日焼けしたもんだねぇ。顔が、写真とずいぶん違うじゃないの」
かと思うと、その横から別の若い女性が姿をあらわし、
「ねぇねぇ、とにかくお風呂よ、お風呂。お風呂を沸かしてくるわ」
すると次に幼稚園ぐらいの女の子が走り寄ってきて、
「お客さんだぁ。今夜はジンギスカンだよねぇ。わーい、ジンギスカンだぁ」
と跳ね回る。なんだか騒々しくなってきた。
そのうち、今度は工場から、作業員のような人たちが何ごとが始まったのかとぞろぞろ様子を見に来る。
「へぇ、自転車で?」
「大阪から? 誰なの?」
などと口々に言い合って、僕と自転車を取り囲んだ。よその家からも何人かの人たちが出てきて、こちらへ集ってきた。
いよいよ仰々しいことである。
最初に顔を出した若い男性が、一同に向かい、
「さぁみんなぁ。この人はこれからお風呂に入るからね。またあとで…、あとでねぇ」
という言葉を合図に、僕はその男性の案内で、人ごみをかきわけて…というのは少し大げさだけれども、10数人は集まった人たちの間を、自転車を押し、工場の隣の家のほうに入った。
思いもかけぬ歓迎を受け、自分が急に有名人になったような錯覚を抱いてしまうほどだった。


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古川家の人々の親切は、骨身に沁みるほどだった。


夕食の席で、叔父さんである古川さん、そのご夫人、長女のメガネお姉さんとそのお嬢ちゃん、最初に僕を案内してくれた同世代の長男一司さん、お風呂を沸かしに行ってくれた次女邦子さん、末弟の俊ニさんら、沢山の家族の方たちに囲まれて、楽しいひと時を過ごさせてもらった。


何日か前に、崑ちゃん先生の奥さんが、僕の顔写真を添えて、あらためて僕のことをよろしく、という手紙をここへ送ってくれていた。その手紙を見せていただくと、奥さんは僕のことを、「歌手の三田明に似た青年です」などと書いていた。それが話題に出たら、メガネ姉さんが、
「でもねぇ、こんなに真っ黒な顔をしていたんじゃぁ、三田明にはほど遠いわねぇ。あっはっは」
と、大笑いした。メガネ姉さんは、最初から、僕が写真の顔と大違いだ、とばかり言っては笑うのである。その子どもで「ジンギスカンだぁ」と跳ね回っていたお嬢ちゃんも、横から、
「ミタアキラなんかに、ぜんぜん似ていないものねぇ」
と言葉をはさみ、一同はさらに大笑いする。
ちなみに、夕食はジンギスカンではなかったけれども、沢山の種類の魚介類が並んだ目を見張るような御馳走であった。僕は、大勢の家族の人たちの手前、なるべくガツガツしないように気をつけながら、それでも、御飯は何杯もお代わりした。


「大阪には長い間行っていないさぁ。容子(崑ちゃん先生の奥さんの名前)とも10年以上会っていないなぁ…。子どもが出来たらしいね」
古川さんは、懐かしそうに言ったあと、僕に、
「明日は息子たちが網走のいろんなところを案内するから、2、3日ゆっくりして行きなさい」
と言ってくれた。
今日1日だけ泊めていだだくつもりだったが、いろいろ計画を立ててもらっているようだったので、ご好意に甘えることにした。こんな居心地のよいところであれば、何日だって逗留したい、というのが正直な思いである。でも、この心地よさが身体の芯まで馴染んでしまうと、もう二度と自転車の旅などできなくなることは、これまでの経験上、自分にはよくわかっていたので、なんとなく複雑な気持ちではあった。


テレビでは、僕の好きなプロ野球が映っていた。
オールスター戦の第一戦であった。
今年、法政大学から阪神に入団したばかりのルーキーの田淵幸一が、いきなりホームランを打ってファンを沸かせていた。





  
たいへんお世話になった古川家の人々。
前列左から、長女のメガネお姉さん、そのお嬢ちゃん、長男一司さん、僕。
後列左から、次女邦子さん、次男俊二さん、古川夫人、古川さん。