33 湧別の交番所で1泊

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第33回




番所で道を聞くと「泊まっていきなさい」とおまわりさんが言った







由見子嬢と僕は、お互いのこれからの旅の無事と一層の健闘を祈り合って、右と左に分かれて出発した。由美子嬢は最北端をめざし、僕は網走をめざす。


砂ぼこりにまみれながら、雄武、興部、紋別と進む。


網走に行けば、高校時代の恩師の奥さんの親戚がある。そこで泊めてもらえる楽しみが待っている。その網走はあと少しのところに迫ってはいるものの、今日中に着くのは距離から見ても無理であろう。







  紋別駅のスタンプ




紋別を過ぎ、地図で次の町を確かめると、湧別というところがあった。経費を節約するために、今夜もテントを張って野宿にしようかと思ったけれど、身体中ほこりだらけになってしまっていたので、湧別では奮発して旅館に泊ることに決めた。もう、我慢にも限界がある。いくら野宿に慣れてきたと言っても、この状態ではさすがに気持が悪過ぎて眠れないだろう。とにかくゆっくりと風呂に浸かって、汗とほこりと垢がこびりついて汚れ放題になった全身を、気の済むまで洗い清めたい…欲も得もなく、そう思った。


湧別の小さな町並みに入った。さて、こんなところに旅館というものが存在するのかどうか、心細い限りである。


銭湯の前を通過する。もしも旅館がなければ、せめて銭湯だけにでも入って心身をさわやかにし、生気を取り戻したい。泊る場所はそれから考えよう。


番所があった。
僕はその前で自転車から降り、中で座っていた五十がらみのおまわりさんに、この近くに旅館はありませんか、と尋ねた。
「旅館かぁ。ふ〜む」
最近、人気上昇中のザ・ドリフターズ荒井注みたいな顔をしたおまわりさんは、椅子から立ち上がり、旅館があるともないとも答えずに、腕組みをしてしばらく目だけを大きく開いて、口のほうはいっこうに開く気配は見せなかった。
そうして、顔はドリフターズだったが、目つきだけは警察官らしい鋭い一瞥をくれ、僕と自転車を交互に観察してから、やっと重い口を開いた。
「どこから来たの? 仕事は?」
「大阪から来ました。大学生です」
そう答えると、おまわりさんは「ほぉ〜」と表情を和らげて、
「泊るんなら、…ここへ泊りなさい」
そう、言った。
「え…?」 
その意外な言葉に一瞬耳を疑った。
この交番所に泊めてくれるというのである。
改めて入口に掛かっている長くて大きな表札を見ると、
遠軽警察署湧別警察官派出所」
と書かれていた。



    




中は普通の民家と変わりなく、おまわりさんはここで住んでいるようである。とにかく、その日の宿泊場所が決まるのは何よりもうれしいことだ。
僕は有難くその申し出を受けさせてもらうことにした。
この旅行は、野宿か宿での泊りか、いずれかを繰り返してきたが、人の家に泊めてもらうのはこれが初めてである。
「遠慮することはない。住んでいるのはわし一人だから」
そう言って、自転車を中に入れるよう促した。
「すみません。では、さっそく銭湯へ行ってきます」
自転車を入れてから僕がそう言うと、おまわりさんは「じゃぁ、これで」とポケットから小銭を出して、銭湯代の30円までくれたのである。


銭湯に行って、鏡を見たら、髪の毛から眉毛まで、ほこりで真っ白になっていた。
湯舟に浸かっていると、老人が、
「あんたぁ、さっき自転車に乗ってた人だねぇ」
と僕の顔をのぞき込んだ。


銭湯から交番に戻り、洗濯をしたあと、夕飯をご馳走になった。
僕がご飯を食べている姿を、おまわりさんはタバコをふかしながらしみじみと眺めている。奥さんと息子さんから離れて、単身赴任をしているのだそうである。
食後には日本酒を一升瓶ごと出してきて、湯飲みに注いで勧めてくれた。甘納豆のようなものをアテに、いっしょに飲み進めているうちに、おまわりさんは、
「ところで、君は…学生運動についてはどう思うのかね?」
と質問した。目が、じろりと光ったように見えた。


この年、全国各地で大学紛争の輪が広がっていた。
1月に東京大学安田講堂に機動隊が入り、そのあと東大の入学試験が中止されたのは、その象徴的な出来事であった。
僕が通う大学でも、御多分に漏れず紛争は華々しかった。しかし僕はそんなことには全く関心が湧かず、大学へ行っても、学生たちが騒いで教授をつるし上げたり、ストライキなどをして休講が続いたりすると、駅前のパチンコ店や喫茶店で時間をつぶすという、ぐうたらなノンポリ学生であった。


僕が、自分はそういう者だと説明すると、
「悪いんだけど…商売柄だから…」
と、おまわりさんは、お酒のせいか多少顔を赤らめ、苦笑しながら、身分証明書の提示を求めた。
僕が学生証を見せると、それを隅々まで丹念に眺め回し、
「法学部…うむ、法律を勉強しているんだね。刑法は得意かい?」
と、自分も警察官として刑法の勉強をしているんだと言い、本棚から数冊の法律書を引っ張り出してきて、僕に見せた。そして、「刑法とは何か」「犯罪の定義とは」などについて次々と問いかけてきたので、僕はちょっと閉口した。しかし、僕が眠そうな顔をしたのをすぐに察してくれたのか、おまわりさんはあっさり話を切り上げ、
「疲れてるだろう。布団を敷いてあげるよ」
と、早い目に寝かせてもらえたのは本当にありがたかった。


畳の上の布団で寝るのは、よく考えてみると、ちょうど2週間前の洞爺湖昭和新山ホテル」以来である。
やっぱり、この感触はたまらない。


この夜は、ぐっすりと眠れた。