9 山形・奥の細道

  

     自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜



山形の海辺でテントを張る

 



あつみ山や吹浦かけて夕涼み  芭蕉




新潟のエミちゃんと旅館「般若」のおかみさんに別れを告げて、僕はまた自転車を漕いだ。新潟から、国道8号から国道7号に変わる。新発田市を通過し、次の街の村上市に入ったとたん、左側の道から勢いよく飛び出してきた車に危うくはねられそうになった。危ない、危ない。


村上市街を出て行くと山の中に入り、やがてさしかかった峠から、今度は軽やかに下って行くと眼前に青々とした日本海が広がった。ここからはまた海沿いの道である。峠でもなんでもない平坦な道端に「山形県」の標識が立っていた。ここから「みちのく」である。
「おくのほそ道」で、芭蕉が、「白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心狂はせ」たみちのくは、僕の場合、白河の関ではなく、鼠ヶ関のあった温海町でその第一歩を踏み出した。


その「おくのほそ道」のことである。


この自転車旅行は、憧れていた東北や北海道へ、ともかく行ってみたいという闇雲な情熱に駆られた旅だったけれども、いくつかの目的も、あることはあった。それは、たとえば太宰治の生家である旅館「斜陽館」に泊まること、高村光太郎の山荘を訪れること、芭蕉の「おくのほそ道」の跡をたどること、石川啄木の生まれ故郷渋民村へ行くこと、などであった。
それぞれの目的地はすべて「点」であるが、「おくのほそ道」の芭蕉の足跡だけは「線」である。そして、その「線」は、僕の旅のコースと重なる部分が多かった。


芭蕉は江戸を出て、日光、白河、仙台、平泉から、西へ山形、酒田と辿り、日本海沿いを象潟でUターンして新潟、富山、金沢、福井、敦賀と歩き、大垣で5ヶ月半の旅を終えている。僕も、敦賀、福井、金沢、富山、新潟と、芭蕉の進路とは逆だけれども、ここまでよく似たコースを走ってきた。帰途には平泉や仙台、白川の関跡を通るだろう。旅行前、少しばかり「おくのほそ道」も読んで「予習」をし、それなりに志は抱いていたのである。


しかし、実際に旅に出て次々とふりかかってきた出来事は、人生経験の浅い僕にとっては、予想をはるかに超える鮮烈で過酷な体験の渦となって、それまで準備し整えてきた旅のあるべき形みたいなものを根底からくつがえしてしまった。攻撃的な旅行のはずが、いきなり圧倒的な攻めに遭い、防御するのに精一杯の旅となった。敦賀でも福井でも金沢でも新潟でも、「おくのほそ道」どころではなかったのである。これは、今でも思い出すたび、残念でならない。









日が暮れてきたので、自転車を海岸へ下ろし、テントを張った。


富山、直江津、新潟に続いて4日目の野宿である。


海を見ながら「般若」のおかみさんにもらった弁当を食べ、テントの中の寝袋にもぐりこみ、ラジオでプロ野球中継・巨人対大洋戦を聴いた。ひいきの巨人が大量リードをしたので安心して、途中でスイッチを切って寝た。


今年のプロ野球は面白い。田淵、山本浩二、富田の法政大学最強トリオと呼ばれた大物新人がそれぞれ阪神、広島、南海に入団し、そのほか、ヤクルトに若松、中日に星野仙一、阪急にサブマリン投法の山田久志と俊足の福本、西鉄に東尾、ロッテには近畿大学の有藤が入団していた。田淵と星野はともに巨人入りを熱望し、僕たち巨人ファンも大いに期待していたけれど、ドラフト会議の壁厚く、巨人は島野という投手が入団する結果となった。


夜中、強風にテントがパタパタと大きな音を出して揺れ、何度も目がさめた。

 



  浜辺にテントを張る。