8 新潟その2

  

     自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜



謎の女性・エミちゃん





  新潟駅




  駅で押したスタンプ。坂口安吾の言葉が入っている。




6月24日。
「あんた、これからどこへ行くの? 登山なの?」


朝の7時ごろだった。
僕は新潟駅で歯を磨き、サイン帳に記念スタンプを押して、
自転車に戻るため、構内を歩いていた。
そのとき、その女性は柱を背にして立っていたが、
僕を見ると素早く近づいてきて、そう尋ねた。


「登山じゃありません。自転車旅行です」
僕は立ち止まってその女性と向き合った。
「自転車旅行? どこから来たの? どこまで行くの?」
30歳前後であろうか。 
痩せて、色白で、切れ長の目をした女性だったが、
濃いめの化粧になにかしら妖しげな雰囲気が匂う。
たぶん 「遊女」 のたぐいであろう。 
「危険な香り」につられてはいけない。
僕はちょっと身構えた。


「大阪から来ました。北海道へ行きます」
そう言って歩き始めたら、「遊女」は追いかけてきて、
「まぁ、そんなに遠くまで行くの? 小さい体なのに元気あるのねぇ」
と言いながら、僕の腕に手をあて、
「あたし、エミちゃんよ。そこのチャバレーに勤めてるの。新潟は初めて?」
と、僕の前にまわりこんだ。


「あ、はぁ…。初めてですけど。でも、もう行かなくては…」
「あんた。チャバレーって知ってる?」
「チャバレー? キャバレーなら聞いたことがあるけど…」
「そうよ。知ってんのね。チャバレーよ」
「キャバレー、でしょ?」
「そうよ。チャバレーよ。『チャバレー香港』って知ってる?」
「知りません」
「ウラ日本で一番大きいチャバレーなの。エミちゃんはね、そこで働いてるの」
「あ。そう…ですか」
「今ね、お客さんを見送ってきたのよ。ねぇ、新潟を案内してあげるわ」
「いや、そんな…。いいです。知らない方にそんなことしてもらったら…」
「いいの、いいの。さ、行きましょう。♪ ターンタタタタタッタンタン ♪」


エミちゃんと名乗る女性は、
鼻歌まじりに僕の手を引っぱってタクシー乗り場へ行き、
客待ちの運転手に、
「この子ねぇ、新潟初めてなの。そのへんをぐるっとまわってほしいの」
そう言って、さ、さ、乗りなさい、と僕をうながした。


直江津、新潟と、二晩続けてほとんど眠っていないぼやけた頭で、
今起こりつつあることを分析する余裕もなく、
おまけに相手は親切そうな女性一人だ、
危害を加えられる心配もなさそうだし…、まぁいいか、と思いながら、
「エミちゃん」 に押し込まれるようにして、タクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手は張り切って、
「じゃぁ、まず新潟港から行ってみましょう!」 
と威勢よく車をスタートさせた。


新潟港へ着くと、エミちゃんは、
「ここから船で佐渡島へ行けるのよ。佐渡島へ行きたい?」
と言うので、さすがに僕は恐れをなして、大きく首を左右に振った。


港から阿賀野川の鉄橋へ行き、そのあとタクシーは、
新潟の市街地をぐるんと循環したようだが、
もちろん僕にはどこを走っているのかさっぱりわからない。
ただ、昭和石油工場前を通ったときに運転手が、
「5年前の新潟地震では海水がここまで上がってきたんですよ」
そう説明してくれたことには、僕も、「あぁ、あの地震のときか…」とうなづけた。
1964年6月、新潟に大地震があったことは、僕でもよく知っている。


車の中でも、エミちゃんはしきりに鼻歌を歌っていた。


 ♪ これこれぇ石の地蔵さん 西へ行くのはどっちかえぇ 
    黙っていてはわからない〜 ♪


美空ひばりの歌を上機嫌で歌っているかと思えば、
「エミちゃんにはいいお客さんがたくさんついているから、
 お金はウンと持ってるの」 
とちょっと小鼻をうごめかしたりする。
運転手が 「うへへ。それはそれは…」 と恐縮した様子で相槌を打つ。


僕はやがて眠くなり、ウトウトしはじめた。


「ここでとめてちょうだい。ありがとう」
エミちゃんは運転手にそう言って、
「降りるわよ」と、僕の膝をポンとたたいた。



   
   新潟港。


   
  昭和石油工場。





降りたのは小さな旅館の前だった。 エミちゃんは、
「あんた、朝ご飯まだでしょう? ここで作ってもらってあげるからね」
と、その建物の中に入って行った。


「旅館・般若」 という屋号が掛かっていた。
僕もいっしょについて入っ行った。


薄暗い部屋の奥から出てきた50歳ぐらいのおかみさんらしい人に、エミちゃんは、
「この子、大阪から自転車で走ってるのよ。20歳よ。北海道まで行くんだって。駅にいたから連れてきちゃった。何か食べさせてあげてね」
と伝え、僕に合図して2階へ上がった。
僕もいっしょについて上がった。
もう、こうなると、成り行きにまかせるほかないのである。


四畳半ぐらいの部屋に布団が敷いてあった。
その横にテーブルがある。
僕はそのテーブルに肘をつき、両足を投げ出した。
エミちゃんは僕の足を眺めて、
「あんた。足はワリに大きいのねェ」 と触ったり、
あるいは、じっと僕の顔を見て、
「あどけないわね」 とつぶやいたりしながら、やがて布団の上に寝転んだ。


おかみさんが、ハムエッグや海苔や味噌汁の美味しそうな朝食を運んできてくれた。「いただきます」 とおかみさんに頭を下げ、僕は箸をとった。


「これでもねぇ、苦労してきたのよ…」
エミちゃんは仰向いたままで天井を見つめ、身の上話を始めた。


…エミちゃんは福島県生まれで、近くに野口英世の記念館がある。家族と反りが合わず、中学を卒業してすぐに新潟へ出てきた。「チャバレー香港」 で稼ぐようになって、一度だけ故郷に帰ったことがあるが、
そんな自分を白い眼で見た。いつか故郷の連中を見返してやる…。


ざっとそういう話であった。
「エミちゃんはね。あと10年いまのお仕事をして、田舎に帰ってお店を持つの」
そう言ったあと、にわかにウトウトと居眠りはじめた。
「あ、ここへお名前と住所を書いてもらえますか?」
僕はご飯を頬張ったまま、あわてて、
寝かけているエミちゃんの前に手帳を差し出した。
エミちゃんは半身を起こして、
「…ここね。本名を書けばいいのね」と言って、鉛筆を握り、
僕の手帳のアドレス欄に小さな文字を書き込んだ。


「どうも…」
そう言って、僕はその名前を見た。
そして思わず 「あわわわわぁっ!」 と叫びかけた。
僕は自分の眼を疑った。
何度も何度も、その名前を読み返した。
その名前は、…明らかに男の名前であった。


「どうしたの…?」
エミちゃんが、身体が固まってしまった僕の顔をのぞき込んだ。
「あれぇ…? あんた、わからなかった? エミちゃんは、男なのよ」


「うぐっ!」
ご飯が喉につまった。
「あら、知らなかったのね。びっくりさせてしまったかしら?」


「うぇっ!」
エミちゃんは平然としている。
「お客さんの中でも、エミちゃんが男とは最後まで気づかない人がいるのよ」
またころんと寝転び、エミちゃんは、ふふっと笑った。
僕はエミちゃんから目をそらし、お茶を一気に飲んでご飯を流し込んだ。
「まあ、あんたには、やり方までは教えないけどね…」
そう言ったあと、大きなあくびをして、
「エミちゃん、昨日の晩は寝てないから、少し寝るわね」
と言ったかと思うと、次の瞬間にはスースーと寝息をたてはじめた。


僕は、エミちゃんが書いてくれた手帳の名前をもう一度見て、深いため息をついた。 そこへ、おかみさんが、そっと入ってきた。
おかみさんは、僕の正面に座り、じっと僕の顔を見た。
「エミちゃんはね、あなたとは全く別の世界に生きている人よ。かかわっちゃだめ。もうすぐお弁当ができるから、少し待っていてね」と言い、
「私にもあなたと同じ20歳の一人娘がいて、今は東京の大学に行ってるのよ。 美智子妃殿下が出られた大学よ。あなたも大学生でしょ。こんな旅行をして、ご両親もどれだけ心配されていることでしょう。 どうか気をつけて行くのですよ」
そう言って下へ降りて行き、10分ぐらいしてまた部屋に現れて折箱3つをくれた。
ひとつの箱には色とりどりのおかずが詰まっており、あとの二つの箱にはおにぎりがいっぱい入っていた。さらにおかみさんは、チョコレートと黒砂糖とチリ紙を持たせてくれたうえ、
「駅までタクシーで行きなさい」 と1000円札が1枚入った封筒をくれた。
封筒の表には、「せんべつ」と書かれてあった。


エミちゃんは、その横でスースーと寝息を立てたままである。
「エミちゃんにはちゃんと伝えておくから、さぁ、行きなさい」
おかみさんに見送られて、外に出た僕は、おかみさんが呼んでくれたタクシーに乗り込んだ。


動き出した車の中から、何度も後ろを振り返ったが、おかみさんはずっと立ったまま、僕の方を見てくれていた。


新潟駅に着いたら、すでに昼の12時を回っていた。




  
 「般若」の名刺。
   おかみさんから受けた親切は、一生忘れられない。
   今もこの旅館はあるのだろうか? 
   おかみさんは健在なのだろうか…