26 稚内 (上)

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第26回




稚内で一段落。バスで最北端へ行く








稚内の地図を見ると、一番上に野寒布岬というところがある。
ノシャップ岬と読む。
これとよく似た地名に、納沙布岬、というのがある。
ノサップ岬と読む。北海道東端、根室半島の先端にある岬だ。
うっかりと間違ってしまいそうな双方の地名である。


稚内のこのノシャップ岬が、日本最北端の地であれば、話は簡単であった。
しかし、日本最北端は、稚内から東へ何十キロも走った先の宗谷岬になるので、僕たち3人は、稚内公園で一夜を過ごした翌日の13日、バスに乗ってそこへ行くことにした。


朝から、稚内公園の一角にあるユースホステル「道北青年の家」へ行き、3人のその日の宿泊を予約して、そこへ自転車を預け、そろってバスに乗った。
僕は、このあと、宗谷岬を通って、オホーツク海沿岸を網走方面に走る予定だったので、宗谷岬はどちらにしても通過するのだけれど、札幌の2人は、明日にも稚内を出発して、札幌への帰途につかなければならず、稚内市内も見物したいということだったので、時間を節約するため、ここからバスで宗谷岬まで往復することになった。
僕もそれにおつき合いである。


稚内から宗谷岬まで、バス賃は片道で230円だった。いくらなんでもこれは高いのではないか。その高値料金のバスに約1時間揺られて、宗谷岬に着いた。
そこに、日本最北端の碑がある。


すでに観光バスやマイクロバスなどが何台か到着していて、「日本最北端」と刻み込まれている三角錐型の碑のまわりには観光客が群がっていた。
小さな碑のほかには見るべきものはないので、誰も彼もが碑の前へ殺到する。
記念写真を撮るために、人々は長蛇の列をなし、次々にポーズをとっては次のグループへと変わってゆく様子は、見ていて退屈しない。
とは言うものの、僕たちもその列の中に入って順番が訪れるのを待ち、僕たちの番になると、他の観光客にお願いして、3人そろって最北端の碑の前で記念写真を撮ってもらった。


帰途も同じく230円のバスに乗り、稚内の宿舎・道北青年の家へ戻った。


札幌の2人は、稚内市内の見物に出たが、僕は別行動で、郵便局へ行き、局留めの郵便を受け取って宿舎へ持ち帰り、二段ベッドに寝転がってそれらを読んだ。


僕は行く先々から、いろんな人に手紙やハガキを書き送っているが、それには、
「次は、○○郵便局止めで、○月○日までに到着するようお願いします」
とつけ加えていた。やはり、出すだけでなく、返事もほしかった。
これまで、新潟、札幌などで友人たちの手紙を受け取っていたが、稚内郵便局も「指定」していたので、ここで何通かの便を受け取ることができた。ちなみに今日は日曜日だが、貯金の引き出しはできないけれど、郵便物の受け取りなどはOKなのだ。


この日もらった郵便の中で、最も楽しかったのは高校時代の恩師、「崑ちゃん先生」からのハガキだった。


崑ちゃん先生とは、丸いメガネをかけて、大阪のお笑い芸人・大村崑そっくりの顔をしているところから来たあだ名である。
高校を卒業してからも、僕は崑ちゃん先生を訪ねて、よく職員室へ遊びに行ったりした。
年齢も僕と7、8歳しか違わず、まだ結婚して1年余りであった。
実は、崑ちゃん先生の奥さんが北海道の人で、奥さんの叔父さん夫婦が網走に住んでいる。僕の今回の旅行を知った奥さんは、ぜひ網走の叔父の家に泊るように勧めてくれたので、僕はご好意に甘えることにし、住所も聞き、地図も描いてもらっていた。


その崑ちゃん先生からのハガキである。
僕の旅行中に、先生に赤ちゃんが誕生した。
出発前に会ったとき、奥さんはお腹が大きかったものね。
ハガキには、生まれたての赤ちゃんの足型まで押してあった。


「元気で何よりだ。子供は稚子(わかこ)と命名した。稚内の稚だ。大阪は雨ばかり。おしめがかわかん。稚ちゃん、ばぁーばぁ、俺は親馬鹿だ」



崑ちゃん先生は、そう書いていた。





崑ちゃん先生からのハガキ




ハガキや手紙を読んだ後、僕は宿の受付へ行き、明日ももう1泊する手続きをした。



ここで2泊。結局稚内ではテントも含め、計3泊した。