56 二十歳の原点

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第56回



1969年(昭和44年)とはどういう年であったのか…




1969年の8月5日。 僕はブログの中で、青森県八戸市にいる。
ツカハラ先生の実家の時計屋さんで、お世話になっている…。
そして現在は…といえば、38年後の2007年9月10日である。


僕が自転車旅行をした 「1969年 (昭和44年) 」 とはどういう年であったのか。


団塊の世代として、1949年(昭和24年)1月に生まれた僕は、大学3年生だった。
同世代の学生の多くは、このころ盛んだった大学紛争に傾倒していた。
全学共闘会議全共闘)の学生らが1月に東大安田講堂に立てこもり、
警視庁は機動隊を導入、凄まじい攻防の果てに、学生らは排除された。
僕の大学も含めて、全国各地で大学紛争が繰り広げられていた。


また、若者の間では、ベトナム反戦運動と連動して反戦の歌が流行した。
特に東京の新宿西口広場は、フォークソング集会の若者たちで埋め尽くされ、
ここにも機動隊が導入されて、僕が旅行をしている6月〜7月が騒動のピークだった。
このあと、僕は新宿の大将の寮を訪ねて、新宿に行くことになるのだけれども、
まだまだ西口広場は、反戦を掲げる若者のメッカとして、怒涛のように賑わっていた。


しかし、僕はそんな世の中の騒ぎなどはどこ吹く風で、
学園紛争にも参加せず、大学の講義もほどほどにサボり、
せっせとアルバイトに精を出し、お金を貯めて自転車旅行に出発した。


この年の最大のニュースは、アポロ11号が、人類初の月面着陸に成功したことだった。
7月21日。 僕は、網走でお世話になったご家庭のテレビで、衛星中継を見た。
沖縄が、3年後の72年に日本に返還されることが決まったのも、この年だった。
まだ、沖縄旅行にパスポートが必要とされる時代であった。
翌年は、大阪で、わが国初の万国博覧会が開かれることになっていた。
自転車旅行中に知り合った人たちも、来年、大阪へ万博を見に行きたい…
そう言って、何人もの人たちが、大阪に住んでいる僕を羨ましがった。


このころは、若者も、社会全体も、エネルギーに満ちていたように思う。
大阪万博は、高度成長が行き着いた果ての一大イベントのように見えた。
CMでは丸善石油の 「オー・モーレツ」 が流行した。
小川ローザのスカートが、猛スピードで通り過ぎる車の風にあおられるポスターは、
僕はこの自転車旅行中、路上で、何十回、何百回と目にした光景であった。
仕事の為にすべてを犠牲にするモーレツ社員が、もてはやされていた時代であった。


流行語といえば、「アッと驚くタメゴロー」 などという言葉が大流行した。
万年筆の宣伝で 「はっぱふみふみ」 というのもあった。
電話のプッシュホンというのが、初めて登場したのもこの年だ。


邦画では 「男はつらいよ」 シリーズの第1回作品がこの年に上映された。
洋画ではP・ニューマンとR・レッドフォードの 「明日に向かって撃て」 が話題になった。


テレビでは、 「サザエさん」 の放映が始まった。
出版界では、庄司薫の 「赤頭巾ちゃん気をつけて」 が飛ぶように売れ、 
僕の好きな北杜夫の作品では 「さびしい王様」 がベストセラーになった。


歌は、シューベルツの「風」がヒットし、後に僕はこれを自分の旅行のテーマ曲にした。
「どしゃぶりの雨の中で」 は襟裳岬の手前の黄金道路で濡れネズミになって聴いた。
「フランシーヌの場合」 は、新宿の歌声喫茶で聴き、思わず落涙した。
ビートルズは来日から3年経ち、そろそろグループの求心力は弱まりつつあった。
この年は「イエロー・サブマリン」ぐらいしか印象がない。
ジョン・レノンオノ・ヨーコが結婚式を挙げ、翌70年にビートルズは解散した。


そんな世相の中で、僕は二十歳の夏を、自転車の旅の中で過ごしていた。


二十歳の原点」 という言葉がある。
僕たちの世代では、知らない人はいないほど人口に膾炙した言葉であるが、
これは、高野悦子という女性が書いた日記の題名であり、
70年代始めにベストセラーとなって、
二十歳の原点」 という言葉は、普通名詞になった。


二十歳を過ぎた人は、誰でも自分の二十歳の原点を持っている。
青春の真っ只中にあって、大人としてのスタートでもある二十歳。
これを読んでいただいている方々にも、「二十歳の原点」 があっただろう。
皆さんは、二十歳の頃を、どのように過ごされたのだろうか?
僕の二十歳の原点は、この自転車旅行そのものであった。
混沌、無計画、成り行き任せの青春グラフィティ…といえば聞こえがいいかな?


二十歳の原点」 を書いた高野悦子は、1949年1月2日生まれである。
僕が生まれるより、ちょうど1週間早く、彼女は誕生した。
栃木県那須の人だったが、京都の立命館大学に入学した。
69年に全共闘の運動に参加し、その中で大きな挫折を味わう。
アルバイトで生活費を捻出するが、アルバイト先で失恋をして、
深い疲労感とともに、絶望の淵に沈んでゆく…。 
そして彼女は、69年6月24日、列車に身を投げて20歳の生涯を閉じるのである。
6月24日…。 
この日、僕は、この旅行をしている最中で、新潟にいた日である。


彼女の下宿から10数冊にも及ぶ大学ノートに綴られた「日記」が発見された。
父親によって整理され、栃木県の同人誌に掲載されて大きな反響を呼び、
1971年に大手出版社から 「二十歳の原点」 として刊行された。
これが大ベストセラーとなったのである。


この本の中で、彼女の1月15日の成人の日の日記に、
「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」
…そう書かれていた。


独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である…


同じ年の同じ月に生まれ、1969年・二十歳の夏、僕が自転車旅行をしている間に、
貨物列車に身を投じた高野悦子が、半年前の成人式の日に記したこの言葉…。
それは、自転車旅行を終え、その旅行の意味を考え続けていた僕自身にとって、
魂の奥底まで溶け込んでゆくような、心を揺さぶる言葉であった。


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ともあれ、69年8月。 僕はいま、八戸にいる。
故郷の大阪まで、まだ1200キロ以上もある。 
頑張らなければ…。