K大病院にて


7月7日(土)。
K大学病院の診察予約時間は午前11時であった。
僕は主治医の紹介状を持って、11時前に病院へ着いた。
初めて訪れる病院だが、途方もなく大きい。
中へ入ると、見渡す限り人、人、人。
百貨店みたいだ。これが全部患者か?


初診受付で保険証や紹介状を提出して書類に記入する。
しばらくして名前を呼ばれ、内科の受付に案内される。
この窓口も、他と同じようにかなり混雑している。
高齢の女性が、窓口の事務員にしきりに怒っている。
自分の受診番号票を職員が持ったまま戻ってこないのだという。
「え? 誰に渡したのですか?」と事務員が戸惑っている。


そんな混雑の中で、問診票に必要事項を書き込む。
服用している薬の名前も全部書く。
問診票を提出し、体温計を返す。熱は平熱だ。
「3番でお待ち下さい」と言われた。
両側に1診から10数診まで診察室がある廊下の長椅子に座って待つ。


椅子に腰掛けたまま、何度もウトウトした。
名前を呼ばれた時、時計は午後1時半くらいになっていた。
予約時間の11時から、2時間半待った。


部屋に入って初対面のドクターと挨拶を交わす。
丸刈り市川海老蔵のような雰囲気で、眼鏡とマスクをしている。
抑揚のある口調で、はっきりとものを言う。
海老蔵ドクターは僕が持参した主治医の紹介状を広げ、びっしりと文章とデータらしきもので詰まっている内容をボールペンの先で追いながら、ひととおり僕の話に耳を澄ました後、「典型的な心房細動ですね」と、ずれそうになったマスクをグイっと引っ張り上げて言った。


「動悸が続いて、薬も効かず、しんどいし、不安だし…」
と僕は訴える。
「薬も、だんだん効きにくくなったりしますからね」
と、海老蔵ドクターは僕の目を見て、何度も頷いた。
「わかる、わかる。あなたの苦しさはよくわかるよ」
そんなふうに言ってくれているように見えた。
不整脈」というとすぐに「たいしたことありませんから」と言われ続けてきた僕としては、状況を理解してもらえたことがまず嬉しい。


海老蔵ドクターからの僕の症状についての説明が始まった。


白紙に心臓の略図を描き、左心房、右心房、左心室、右心室の4つを区切って、僕の不整脈がどういう種類のものであるかをなるべくわかりやすく説明してくれる。そして、その治療方法として、薬による治療をまず紹介する。不整脈の薬はいろいろ出ているらしい。


「今飲まれている薬はシベノールですね。これはね。効き目としては、まあ、中間ぐらいですわ。相撲で言うたら、関脇くらいかな」
と、ドクターは、紙に「関脇」と書いて、シベノールと記す。
「ベータ何とか…という薬が前頭です。こいつは弱いです」
「はぁ…」
「シベノールの次に強いのがサンリズムです。これが大関です」
ん…? サンリズムが大関…? 
発作が出るたびに、僕が飲んでいた薬だ。
僕にとっては、不整脈の薬=サンリズムだった。
6月初旬、そのサンリズムが効かなくなり、何度も苦しんだ。
結果シベノールを服用し始めて落ち着いたのだが、そのシベノールが関脇でサンリズムが大関だったとは、ちょっと驚きである。


「最後に、横綱。これが…ナントカカントカ(と薬の名前を書くが、わからない)です。これが世界最強! ですわ」
そう言ったあと、
「その分、副作用も強くなってきますし、最強だからと言って絶対効かなくならない、ともいえません」


以上が薬の説明であった。
要するに不整脈は、薬では完全に防げない、ということである。


「もうひとつの選択肢があります。それが…」
カテーテル・アブレーション、つまり手術である。
ドクターは説明を続ける。


カテーテルとは、管の意味。
アブレーションとは、焼き切ること。


足の付け根にある太い血管からカテーテルを入れ、その先をレントゲン撮影で透視しながら心臓まで到達させ、異常な部分を探し出す作業に時間がかかるという。いろんな症状に対するカテーテル・アブレーションの中でも、心房細動に対するものが最も時間を要するらしい。
手術時間は普通は5、6時間。早い人で4時間。
部分麻酔だから、じっと仰向けで静止したままがつらい、と経験のある人が言っていたけれど、ドクターは、手術の間、薬を投与して患者を眠らせてくれるそうである。手術が終わると…
「○○さ〜ん! と呼びます。そうすると…。はぁん? っていう感じであなたは目を覚まします」
漫談みたいな話し方だが、よくわかる説明だ。


次に、これは必ず聞かされるものと覚悟をしていたリスクである。


カテーテルと言っても手術ですし、心臓に管を入れるのですから、危険はもちろんあります」
手術中に脳梗塞が起きる危険性があるので、血液をサラサラにする薬を投与する。薬が効きすぎると今度は脳出血の恐れがある。手術中に脳梗塞脳出血が起きると、最悪は「死亡」ということになる。
「よろしいですか?」
とドクターは紙に、脳梗塞脳出血・死亡…と文字を連ねる。
脳梗塞脳出血、死亡という事例は、この病院では、これまで例はありません。しかし、事例がないからと言って100パーセント危険性がないかと言えば、それはわかりません。今朝の新聞にも、虫歯を抜くのに麻酔をかけて死亡された記事が載っていました。手術に絶対はありませんからね」
僕はただ、はい、はい、と頷くばかりである。


しかし…
「この手術で根治する確率は60パーセントです」
そう言われたとき、正直なところ疑問を抱いた。
これまで、インターネットなどで調べると、「成功率」は90パーセント以上と書かれていた。しかし、ドクターの言った数値は60パーセント。半分よりちょっと上というだけ…? 低く見積もって伝えるのが病院のやり方なのかも知れない、と勝手に想像しながら続きを聞く。
「それで再発したら、また手術をします。そうすると、根治する確率は80パーセントに上がります」
60の横に、80という数字を、紙に書きつけた。
それでも90パーセントという大台には乗らない。
「でも、不整脈の回数が減り、薬を飲むとおさまるようになったので、再手術せずこのままでいい…と言われる方も沢山おられますよ」
いずれにしても、こういう話は、手術をするかしないかの判断材料にはならない。僕はもう、手術をする、と決めている。


薬は不整脈を防ぐだけで、治ることはない。
治すためには、どうしても手術が必要である。


「…そういったことですが、どうされますか?」
説明を終え、海老蔵ドクターの目が、宮本武蔵のように鋭くなった。
「やります。手術をしてもらいたいです」
ここはきっぱりと言い切った。
何を言われても…。この言葉を伝えるためにここへ来たのだ。
「そうですか。わかりました。じゃぁ頑張りましょう!」
医師が頑張るのか、僕が頑張るのか…よくわからないけれど。


「じゃあ…手術の日ですが、最短で8月23日になります」
ドクターは立ち上がり、カレンダーを見て言った。
「8月23日ですか…? だいぶ先ですね。う〜ん」
「ご都合が悪ければ、この日以降ということになりますが」
「……」
7月から8月中旬頃までは、仕事に休める余裕がある。
しかし、8月20日からは忙しくなる。
20日に幹事長会議があり、23日は臨時会の告示である。
24日には運営委員会がある。そして、30日は本番の臨時会だ。
さらに9月に入ればもっと本格的に多忙になる。


「手術後1週間もあれば、余裕で仕事に復帰できますよ」
ドクターの声をぼんやり聞き流しながら、どっちにしてもこの日程でお願いするしかない…これはもうしかたのないことなのだ、と自身に言い聞かせた。


このK大病院には、近郷近在のあらゆる医療機関から紹介状を持って来る患者であふれている。それぞれやっかいな病気を抱えている人たちばかりであろう。病床も常に満床状態のようだし、手術を受ける人たちは、緊急手術でない限り、何ヶ月も「順番待ち」を強いられるという。しかも夏の期間は学会や何やらがあったり、みんな夏休みを取ったり、またお盆があったりして医師が手薄になり、ますますその時期の手術は難しくなる…。9日に仕事に出た折、事情に詳しい人は僕の話を聞き、
「手術は8月のお盆明け? K大病院にしてはずいぶん早い方ですよ」
そう言った。


K大病院はX市にある。そのX市の市長はK大病院とは深いつながりがあるそうだ。何週間か前、僕がK大病院で手術を受けるつもりのことをウォーキング仲間である市議会議員の○野さんに言った。すると○野さんは、「自分はX市の市長と懇意だから、彼からK大病院に声をかけてもらうように言っておく」と言ってくれたので、僕は診察日時と担当ドクターの名前を○野さんに伝えておいた。少しでも早く手術をしてもらいたかったので、どんな手段でも取れるものは取っておきたかった。だから、そちらのルートからも僕の意向は伝わっていたはずである。それでも「最短8月23日」となった。頼んでいなければ、もっと遅くなる可能性もあったのだろう。


しかし、ドクターから8月23日、と言われた時は、なんでそんな先になるのか、と不思議に思った。僕は大きな病院をとりまくそんな事情には本当に疎く、まあ、7月中には手術をしてもらえるだろう、と楽観していたのである。


「8月23日ですが、いかがですか?」
海老蔵ドクターは、再度僕に尋ねた。
「わかりました。その日程でお願いします…」
「では、入院は8月20日です。頑張ってみましょう!」
それまでに一度検査をしますから、とドクターは言い、僕はその日を確認して診察室を後にした。まとめると次のようなスケジュールになる。


7月20日に、心臓のエコー検査。心電図検査。血液検査。
7月23日に、その結果を聞きに行く。
そして、8月20日入院。
8月23日、手術。
退院は、未定。
26日ごろ?…と勝手に思っている。


「それまでに何かあったらすぐに来てください」
ドクターはそう言ってくれたが、1ヵ月半、不整脈の発作が起こらずに、平穏に過ごせるのだろうか…。そういう心配もある。現在、薬の服用で心房細動の発作を抑えているのだけれど、この薬を飲み始めたころは、不安定な状態で、特に6月末までは何度か発作が出た。7月に入ると少し落ち着き、3日に調子を崩したほかは発作は出ていない。しかしドクンっと瞬間的に心拍が乱れ、軽くめまいがすることは今もある。


飲酒が過ぎたり、過度のストレスをためたり、異常に興奮したりしない限り、手術日までの1ヶ月半くらいは薬でしのげる、というドクターの見立てであった。規則正しく、無理をしない生活を心がけなければならない。


この夏は、1泊旅行にも出かけられない。
ただひたすら、じっと、おとなしく過ごすことになる。