21 白老・夢の跡

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第21回



ハチャメチャな一夜が明けて…



嗚呼! 花の白老5人組、大はしゃぎの図。
左からチバちゃん、クマガイさん、ヤスダさん、フクダさん、僕。



翌7月7日。
前夜に 「契り」 を交わした我らWOCの一党5名は、早朝から寄せ書きをした垂れ幕などを作り、立会人の損丁さんも巻き込んで、大撮影会を断行した。


それにしても寒い。食堂ではストーブが焚かれていた。


朝食が終わり、高知のヤスダさんは自転車に乗って次の目的地へ向かって走り去った。東京のクマガイさんは、リュックを担いで、白老の駅へ歩いて行った。そして、青森の千葉ちゃんも、昨日は僕が担いできた大きなリュックを下げ、「じゃぁ、計根別で待っているからね」 と言い、消えて行った。ピーターとエレンも、「サヨナラ」 と格好いい笑顔をふりまいて、両手を大きく振りながら宿をあとにした。僕は、フクダさんと2人で、彼らを順番に見送った。僕とフクダさんは、ここでもう1泊することにしていた。


みんな行ってしまってから、僕は、洗濯をしたり、手紙を書いたり、庭に座ってぼんやり過ごしたりした。一日中、どこへも出かけなかった日というのは、この旅行では初めてだった。この心地よさを味わうと、もうどこへ行くのも億劫になりそうだ。僕もしばらく損丁さんの弟子にしてもらってここへ滞在しようか、とふと思ったりした。しかし、朝の話では、損丁さんは、明日ここを出てゆくそうである。また別のユースホステルに居候をしに行くのだろう。


フクダさんと2人でユースホステルの小型バスの掃除をして、タダで昼ごはんを食べさせてもらった。


この宿で、お手伝いさんのような仕事をしている20歳前ぐらいの「かよちゃん」 という女性がいた。浮世離れしたところのあるコで、生きているのかいないのか、よくわからないような、存在自体が曖昧な奇妙なコであった。いつも遠いところを見ていた。ふらりとバスに乗り込み、運転席に座ると、窓から顔を出して、
「乗らない? じ・ご・く…へ行くのよ」
などと言って、無表情に遠くを見つめる。
後ろからいきなり草笛を吹いて人を驚かせたかと思うと、知らん顔して通り過ぎて行く。食堂の隅で、絵を描いている。いつも一人で過ごし、ミーティングにも出ない。笑った顔も、見たことはない。なんだか不思議で、そしてとても気になるコだった。


その夜は、泊り客も少なく、しかも疲れたような顔をした人ばかりだったので、夕食後は僕らも静かに部屋へ引き下がった。前夜の喧騒が、ウソのようだった。僕もフクダさんも、早々にベッドに入って寝た。





ユースホステル前で。左はしが損丁さん。




明けて7月8日。僕も次の目的地、札幌へ向かって発たなければならない。フクダさんは、朝食をとるとすぐに出発して行った。部屋で荷物をまとめていると、リュックを背負った損丁さんがひょっこりと入って来た。


「これから糠平に行くんだ。そこのユースホステルで、また居候さ」
そう言って、
「ところで、交通費が足りない。少し貸してほしいのだが」 と照れ笑いをした。


「カンパですね。いいですよ。1000円ぐらいですか?」 
僕が言うと、
「いや、1000円は多すぎる」
と、損丁さん。
「じゃ、500円ぐらい?」
「いや、やはり1000円でいい。糠平へ来てくれ。そのとき返すから」


損丁さんは僕から千円札1枚を受け取ると、
「すまん。助かるよ。じゃ、また糠平で…」
そう言って背中を向けたが、ふと思い出したようにまたこちらを向いて、「糠平はいいところだ。そこのユースではなぁ、男風呂から女風呂が見えるんだぞ」そう言い残して、損丁さんは去って行った。


僕も出発である。自転車を出して、いつものように、いろんな荷物をくっつける。かよちゃんが僕の水筒にお茶を入れてくれ、玄関口で見送ってくれた。「さよなら」 と囁くように言って、かよちゃんは、手を振った。自転車に乗って、僕は何度も振り返ったが、かよちゃんは、こちらに向かってずっと手を振っていた。僕もひんぱんにかよちゃんの方を振り返り、手を振ったのだけれども、そのたびに自転車がぐらついて、何回もひっくり返りそうになった。





この地図のほぼ中央が、損丁さんが行く糠平だ。





損丁さんが、僕のサイン帳に書いてくれた。




後日談  〜 WOCのその後 〜


「白老の誓い」 を交し合った5人はその後、再会したのか…?


結論から言えば、5人が一同に会することはなかった。しかし、それぞれの人たちとの交流は、旅行中も、そして旅行が終わったあとも続いた。


北海道一周の自転車旅行をしていた明治大学のフクダさんは、大阪の人だったが、当然、東京で下宿生活をしていた。僕は、「白老の誓い」から1ヶ月以上経った8月中旬、東京へ行ったとき、フクダさんの下宿に泊めてもらった。それ以来、彼とは会っていない。


日本一周自転車旅行のヤスダさんは、後年、何度か大阪で会った。いまも年賀状のやりとりは続いている。


最も親しくなったのは、東京在住の国鉄マンで僕より3歳年上のクマガイさんであった。彼は、僕が家庭を持ってからも、何回か自宅に泊りがけで遊びに来てくれた。僕が所用で東京へ行ったときには、葛飾区の彼のお宅に泊めてもらった。ある期間には毎日のように手紙をやりとりし、妻があきれたほどであった。


クマガイさんは海外旅行が趣味だった。後に、同じ海外旅行中に知り合った女性と結婚し、新婚旅行でモスクワへ行ったが、奥さんが急病に羅り、現地で緊急入院した。2人っきりで心細い思いをしていたとき、イリナという美しい看護婦さんが献身的な看護をしてくれ、数週間後、無事退院の運びとなって日本へ帰国することができた。「イリナさんは妻の命の恩人です」 と、クマガイさんは、僕に手紙でそう書いてきた。
彼は、2年後に誕生した自分の娘に、伊利奈という名前をつけた。その伊利奈ちゃんも成長して、いまは家庭の主婦になっている。


計根別へ行った青森の千葉ちゃんと、糠平へ行った損丁さんは、この旅行中にエピソードが続くので、ここでは省略する。


1969年の七夕さまの前の夜。いろいろな人たちとの出会いがあった。白老ユースホステルでのその一夜は、生涯忘れられない時間となり、僕の心の中で、今も止まったままである。