43 “黄金道路” を走る

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第43回



帯広から襟裳岬へ、どしゃぶりの雨の中を…




   




帯広畜産大学で一夜を過ごした新宿の大将とねずみ男と僕の3人は、今日は襟裳岬へ向かうことになっていた。帯広市から広尾町を通って、太平洋沿岸の道路を襟裳岬まで走るのは、地図を見ただけでもぞっとするほど、骨が折れそうな予感がした。おまけに朝から雨が降ったり止んだりしている。


帯広を出て間もない頃、
「ヒッチしようぜ」
と自転車を停めた大将が雨空を見上げながら、辛気臭そうに言った。
ヒッチ? ヒッチハイク…?
「そうよ、ヒッチだよ。自転車ごと車に乗せてもらうんだ。雨の中なんて走っちゃいられねぇだろ」
まあ、そう言われてみたら、それ以上楽な旅はない。でも、僕はこの旅行では、ずっと自分の足でペダルを踏んでここまで進んできたのである。たとえ一度でもヒッチハイクなどという「邪道」に手を染めると、何か今まで守ってきた自分自身の神聖なものが崩れてしまいそうな気もした。僕の頭の中では、まぁカタいこと言わずに楽すればいいじゃないかという甘い囁きと、初心を忘れるなという厳しい叱咤が、交互に行き来する。


しかし、僕ひとり迷っていても、事態はお構いなしに進行する。ねずみ男が1台のトラックの前へふらふらっと出て手をあげたら、トラックは、親切にも道路わきに停まってくれたのだ。そして運転席の男は、自転車3台を荷台に乗せるのを手伝ってくれ、僕たちを助手席にぎゅうぎゅう詰めに座らせると、
「広尾までだよ。それから先はだめだけど」
と言って車をスタートさせた。
あ〜、僕はとうとう悪魔に魂を売ってしまった…。けれども…、車に乗って居眠り半分に、雨に煙る光景が次々後方へ飛んで行くのをぼんやり眺めていると、なんともけだるく罪深い幸福感を覚えるのであった。



    




ちゃっかりと短時間で広尾まで来た僕たちは、車から降りると、とりあえず広尾駅へ行って、昼食にカレーライスを食べたりして一段落した。そして、ますます雨の強まる中で、出発しようかどうか思案しているとき、横から大将が怒鳴るように言った。
「こうなりゃ、ついでだぁ。襟裳岬までヒッチしよう。どうせ雨なんだからな」
なんだ、またヒッチかよ…。
ずいぶんヒッチの好きな大将である。だいたい自転車をこいで日本一周をするほど堅実な人間には、どこから見てもうかがえないタイプではある。坂本竜馬が好きで、高知県の桂浜にある彼の像を訪ねるために日本一周を思い立ったというが、坂本竜馬よりもヒッチハイクの方が好きなのではないかと思うほどである。襟裳岬までヒッチをしたら、きょうは一日中車で移動することになる。ますます悪魔に魂の大バーゲンをしなくてはならない。しかし、心とは裏腹に、僕は大将とねずみ男とともに、道路を走って来るトラックに逐一手を振って、お〜い、止まってくれぇ、と、わりあい意欲的に叫んでいたのだから、まあ、いい加減なものである。


…コトは今度はそううまく運ばなかった。1時間半ほど車に向かって手を振って合図を送るのだけれども、車はただの1台も停まってくれなかった。3人で手を振ると、何事かと窓からのぞく運転手、一度は停車しそうになるがヒッチとわかるとさっさと走り出す運転手、手を振るとあいさつをされたと思ったのか、こちらに向かってペコリと頭を下げる運転手…などさまざまであるが、僕たちの意を汲んでくれる奇特な人物は、最後まで現れなかった。


「しかたねぇなぁ。走るとするかぁ」
新宿の大将は僕たちに顔をしかめて見せて、それを合図に3人は雨の中を襟裳岬に向かって出発した。
「でもよ、襟裳岬までは道路はいいみてぇだしな、まぁ、すぐに着くだろうよ」



  

「黄金道路」の名所と言われるフンベの滝
このときは雨も小降りでまだよかったのだけれど…。



        



広尾とえりも町を結ぶ国道336号線は、通称「黄金道路」と呼ばれる。大将が、道路は整備されているようだから走りやすいだろう、と言ったのは、地図にこの道路の愛称が「黄金道路」と書かれていたからにほかならない。僕も、それだけ美しい道路だろう、と思っていた。しかし、それは天と地ほどもある認識不足、とんでもない大きな誤解であった。あとからわかったことだけれども、黄金道路は、太平洋沿岸を走る全長約30キロの道路であるのだが、この名称は、開発時に想像を絶する高額な予算を投入して実現をみた道路であり、その莫大な金額から「黄金を敷き詰められたような道路」といわれるようになった由である。黄金のような美しい道路…なんかではなかったのである。そして、それがどう美しくなかったかというと…。


雨は時折止んだりしたが、降るときは猛烈な勢いで僕たちに襲いかかった。道は舗装などまったくされておらず、雨水を含んで泥んこになった箇所もあちこちにあった。後ろからトラックが轟音とともに、猛スピードで追い越してゆく。そんなところを、3人は身を縮こまらせながら懸命に走る。大型トラックがビシャッっと跳ね上げた泥水が、僕の耳の穴まで入ってきた。3人とも、頭から足まで泥まみれである。
「この野郎。ひでぇじゃねえか!」
と、大将は、トラックが走り行くたびにそちらへゲンコツを振り上げて、何度も罵ったり悲鳴を上げたりした。


ようやく一軒の無人小屋を見つけて休憩した。
「何が黄金道路だよ、くそったれが…」
タオルでごしごしと顔を拭きながら、大将はボヤくのをやめなかった。
「こんなえげつない道、見たことありませんがな」
と、ねずみ男もブツブツ言う。僕にとっても、これほどの凄まじい走行は、この旅行では例をみないものだった。3人で走っていたからそれも我慢できたけれども、一人でこんなどしゃぶりの中を走っていたら発狂していたのではないかと思うほどだ。


しばらく僕たちは放心状態で、小屋のベンチに座ったままだった。車軸を流すという形容がぴったりするほどの雨の降りようである。ずっと明るい笑顔をふりまいていたねずみ男も、ぐったりと消沈している。3人とも、ため息しか出てこず、しばらくは重苦しい沈黙が続いた。僕は、天気予報でも聴こうと思い、愛用の小型ラジオのスイッチを入れた。歌がかかっていた。
その歌が…


♪ ど〜しゃぶりぃの雨の中で 私は泣いた〜 ♪


「どしゃぶりの雨の中で」
19歳の新人歌手・和田アキ子が歌って、ただ今大ヒット中の曲である。


「……?」
「……?」
「……?」


歌を聴いて、僕たちは、おたがいの顔を見合わせた。
「どしゃぶりの雨…? ふぅ〜。タイミングが良いというか…」
と、僕はつぶやく。
「歌そのままですね、僕らは…」
ねずみ男


「ウグッ。…ウハッ」
すると、怒り狂っていたはずの大将が、思わず顔をほころばせた。
僕も、なんとなくおかしさがこみ上げてきた。その空気はたちまち伝播し、
「あははっ」
と、ねずみ男も笑いを漏らし、
「くくくっ」
と、僕も身体を揺さぶって笑った。


そのうち、3人ともこらえきれずに
「うぅぅぅっ、あっはっはっはっはっは、わははははは」
と堰を切ったように大爆笑し、大将は、
「ラジオの歌までどしゃぶりの雨の中だってよぅ。やめてくれぇ。腹がいてえよぉ!」
と、ベンチをバンバン叩きながらひっくり返って笑った。
ねずみ男も身体をねじ曲げて大笑いし、僕も涙が出るほど笑った。


しばらくの間、3人とも、気が狂ったように笑い転げていた。