44 襟裳岬

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第44回



襟裳岬に到着したが、宿は満員で…










31キロにわたる雨中の「黄金道路」を走り通した大将とねずみ男と僕は、夕方、ようやくえりも町に入り、襟裳岬にたどり着いた。身体も自転車も荷物も、何もかもが泥んこになっていた。


襟裳岬ユースホステルへ行ったけれど、満員で断られた。僕らが泊まれるような宿泊所は、ここしかなかったので、これでいきなり路頭に迷ってしまった。


お寺に行って頼めば泊めてもらえるかもしれない、という話になり、通行人から近くのお寺への道を訊いて訪ねて行ったが、呼べども呼べども誰も出てこない。仕方なく、そこはあきらめた。次に小学校へ行き、出てきた当直の先生らしい男性に、どこか雨のかからないところに寝かせてくれ、と全員で頼んでみたが、にべもなく断られた。うーむ…。学校には情けというものがないのだろうか。僕たちは、こんな何もない岬の周辺で、どこにも泊まるところが見つからないのだ。ちょっと冷たすぎはしないか? …しかし、よく見れば、僕たちはかなり怪しげなグループだった。特に新宿の大将の黒めがねの胡散臭い風体が、教育者をして慈悲の心を示すゆとりを失わせた、と考えられないことはない。ヒッチハイクでもそうだったが、大将がいなければ物事はもっとスムースに運んでいたものと思われる。
「冗談じゃねぇやい! もうどこでもかまわねぇから、とにかく空家を探して入りこもうぜ」
大将はそう言って、ふらつきながら自転車を走らせた。2人も後へ続いた。


森進一が歌ってレコード大賞曲にもなった「襟裳岬」は、このときにはまだ世に出ていなかったが、あの歌を初めて聴いたとき、「襟裳の春は〜ナニもない春です」という歌詞に、まったくその通りだと共感したことを憶えている。襟裳岬へ行ったのは、これ一度っきりだったけれど、このときの襟裳の夏も、何もない夏だった。何もない、ほんとうに、何もない襟裳だったんだから…


結局僕らが最終的にみつけた「宿」は、小高い場所にある小さな神社の建物であった。仏に見放されたぼくたちは、もう神にすがるしかないではないか…。民家から離れた場所でその神社を見つけた僕たちは、もうここしかない、と覚悟を決め、悪いとは知りながら、3人で神社のカギを引きちぎって中に侵入した。思わぬ闖入者たちに、神さまは驚かれたに違いない。
僕たちは九死に一生を得た思いで戸を開け、
「うわーっ…、助かったァ。今夜はここで寝れるんだぞう」
と、神様の前で靴を脱ぎ、靴下も上の服も脱ぎ、板の間に寝転がって神さまに感謝した。


ランプで灯りをつけ、手持ちの食料を分け合って食べ、3人とも黄金道路での疲労が一気に噴き出したのか、早々と横になり、まもなく寝てしまったようである。

 

 

 
神社の中で一泊。 
翌日、よく晴れたので荷物を乾かす。




翌7月29日。朝、まぶしい陽光が神社のまわりを照らしていた。あの悪天候が嘘のように晴れあがり、海も空も町も、風景は昨日とは一変した。僕らは濡れた寝袋をはじめ荷物の数々を神社の外に引っ張り出して、太陽の下で干したりした。僕のフロントバッグの皮ひもが切れ、サイドバッグもぼろぼろになっていた。豪雨の中を走るのは、バッグ類にとっても大きな損傷をもたらす。やはり、ああいう雨のときは、走るべきではないのだろう。


3人で襟裳岬へ行った。日高山脈がここで海に埋没して行く岬の突端は、転々と、岩礁が神様の足跡のように海に転げ落ちて行く感じである。ほかに何もないけれど、襟裳岬の風景は壮大である。









それぞれ岬で写真を撮リ合ったりしていたが、
「3人で一緒に写真をとりましょう」
と、ねずみ男が自分のカメラを出してきてセルフタイマーをセットした。
大将と僕は海を背景に立ち、シャッターを押したねずみ男がこちらへ走ってきて3人がカメラにおさまった。3人が揃って写っている唯一の写真が下の一枚である。右にねずみ男。中央に僕。そして、左に新宿の大将が帽子をかぶり、ポーズを決めているのだけれども…。その姿が半分も写っていない。旅行が終わってから、奈良のねずみ男からこの写真を送ってもらったのだが、大将にもこの写真を送ったのかどうか、僕は知らない…。




     
左端が大将。せっかくの帽子も、赤い服も…