52 新宿の大将のこと

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第52回



9日間いっしょに走った「大将」のこと




西島さん、という。
一緒に走っている大将の本名である。
年齢は、25歳だと聞いたような気がする。
もう少し、若かったかも知れない。
東京の新宿で、寮生活をしながら働いていた。
出身は、九州だと聞いたような気がする。
違っているかも知れない。


かねてから坂本竜馬にあこがれ、土佐の国への漂泊の思いやまず、
社長さんに何ヶ月間かの休職を願い出て、自転車旅行に旅立った。
竜馬のふるさと高知県を目指すつもりが、なぜか日本一周になった。
東京を出て、太平洋側を北上して函館に渡り、 それから、
ほぼ僕と似たようなコースで北海道を一周をしていたようである。


僕と大将は、帯広の駅前で出会った。


いきなりラーメン店に誘われて、おごってもらった。
その日、一緒に帯広に泊って以来、
襟裳岬、苫小牧、函館(2泊)、下北半島大間崎、
恐山、そして昨夜の横浜町付近の壊れかけたバス停まで、
ずっと大将といっしょに旅をしてきた。
9日間、連れ立って自転車旅行をしてきた。
といっても、行程の大半は自転車ごとトラックに積んでもらい、
ちゃっかりとヒッチハイクを繰り返して来たのであるが…。



     

    

     






野辺地、というところで、道路は右と左に分かれている。
右は国道4号線で、青森市へ通じる道だ。
左へ行けば、三沢、八戸方面である。
大将は右へ行き、青森から日本海側を通ってはるかな西日本へ向かう。
僕は左へ行き、太平洋側を通って東京から故郷の大阪へ向かう。


「…ここで、お別れだな」


そう言って大将は、自転車の荷台から白いヘルメットを取りあげた。
「これは俺からの餞別だ。受け取ってくれ」
ヘルメットにマジックインキでさらさらとメッセージを書き込み、僕にくれた。
僕には大将にあげる物は何もなかった。
「ありがとう。大将はまだ先が長いから、気をつけて」
僕は礼を言い、ヘルメットを自分の自転車の荷台にぶら下げた。
「じゃあな。無事を祈ってるぜ」
「お互いにね。最後まで、がんばろう」
「お、そうだ。東京では必ず寮に寄るんだぜ。寮のおばさんに連絡しとくよ。
 俺は元気で走っていると、おばさんや寮のやつらに、必ず伝えてくれ」
「わかった。きっと行くから」
僕は、すでに大将から、新宿の寮の住所を教えてもらっていた。
「寮で何泊してもかまわねぇんだぞ。遠慮のいらねえ人間ばっかりだからよ」
「ありがとう。そうするよ」


握手をして、僕たちは右と左に分かれた。


また、一人旅が始まった。



    
大将からもらったヘルメット。 
メッセージをいっぱい書いてくれた。



〜 新宿の大将のその後のこと 〜


大将はそれから何年か後、宮城県石巻に住む女性と結婚した。
女性の実家が、石巻市湊の天神前というところで花屋さんを営んでいた。
大将は、彼女と結婚して、石巻に住み、花屋さんを継いだ。
「つまり、まあ、婿養子みたいなもんだ」
と、大将はハガキに書いてきた。
大将と婿養子…。 大将と花屋さん…。
何とも面白い組み合わせであった。


僕たちは、毎年の年賀状のやり取りは続けていた。


あれは、1996年のことだから…、自転車旅行から27年後のことだ。
ある平日のお昼前に、大将から、突然、僕の職場に電話が入った。
何十年ぶりかに聞く声に、僕はびっくり仰天した。
大将は、電話でこう言った。
関西在住の遠い親戚に不幸があって、妻と二人でこちらへ来たが、
きょう午後に、新幹線に乗って、東京 〜 宮城へと戻る。
あまり時間はないが、新大阪まで出てこないか…、というのだ。
僕は急遽仕事を早退して、大あわてて新大阪駅へ行った。


新幹線の待合室で、27年ぶりに大将と会い、思わず抱き合った。
となりで、奥さんがにこやかな表情で、僕たちを見ていた。
大将は相変わらず色眼鏡をかけ、べらんめえ調で話したが、
身体全体がふっくらとして、まずまず穏やかな中年男性に変貌していた。
「花屋だけではなぁ、生活がやっていけなくってよ」 と大将が言えば、
「土木作業とかね、そういうのに出てくれてるのよ」 と奥さん。
「まあ、日雇いよ。はははは」
と、煙草をうまそうに吸って、例の豪傑笑いをするのだった。
1時間ぐらい食事をしたあと、僕は大将夫妻を、ホームまで見送った。
「ぜひ一度、石巻に来てくださいね」
奥さんは、そう言って、手を振った。


大将とは、それから一度も会っていない。
あの新大阪での再開も、すでに10年以上前のことになってしまった。