53 三沢高校と東京大学

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第53回



三沢高校の大田幸司ってすごいヤツ…だそうだ


僕は、自転車で旅行をしているわりには自転車のことを知らない。
自慢するわけではないが、パンクの修理もできないのである。
車も人も通らないような深々とした山中の悪路を走っているとき、
ふと、いま自転車に、パンクなどのトラブルが起きたらどうなるか…?
そう思うとぞっとするのだけれども、だからといって心を入れ替え、
自転車の構造を学び、パンクはもちろん、あらゆる事態を想定して、
万端の備えをするだけの慎重さも能力も、僕にはなかった。
「そうなったら、そうなったときのこと…」
心配性のくせにいい加減な性格だから、最後はいつもそう思う。


野辺地で大将と別れて再び一人旅に戻った僕の最初の目的地は、八戸であった。
高校時代の教諭の実家が八戸にあり、そこに寄ることになっていた。


一人で走り始めて30分も経たないうちに、自転車のギアが動かなくなった。
ギアが動かないと、変速がきかないので、これはたいへん困るのである。
こうなると、機械に弱い僕はお手上げ状態である。
道路わきに自転車を止めて、ガチャガチャやっていると、
「どうしましたか?」 と、通りがかりのサイクリストが止まってくれた。
「変速のギアが動かなくなったのです」 と僕が言うと、
その人は、「見ましょう」 と言って自転車から降り、手袋をはめ、
僕の自転車の何ヶ所かを点検して、慣れた手つきで1分間ほど何事かをすると、
なんと、ギアは元どおりの正常な動きに戻ったのである。 いや、すごい。
「あ、すみませんでした。どうも…」 僕は感心し、感謝した。
「他はいいんですか?」 と言われたので、
「実は、ブレーキも効きが悪くなっちゃって…」 と言葉に甘え、
ついでにそれも、なおしてもらった。
そのサイクリストの手袋は、油で真っ黒になっていた。


それにしても、この人は僕らと同じぐらいの年のように見えるけれど、
落ち着いた所作で礼儀正しく、言葉づかいも丁寧である。
しかも、やることがてきぱきとして無駄がない。
「僕は大阪へ帰るところです。あなたは、学生…の方ですか?」
と、ついこちらも言葉が丁寧になる。
「はい。弘前から来ました」
「じゃぁ、弘前大学の学生さん…ですか?」
「いえ。弘前は実家で、大学は、東大です。4回生です」
はぁ…?
僕は、現役の東大生という人物と、生まれて初めて会話を交わした。
なんという品格に満ちた紳士なのであろうか。


東大生は膝に大きなサポーターをまいていた。
青森、岩手、秋田周辺を走るつもりで弘前を出たが、
旅行前に負傷した膝が悪化し、この先が不安な状態だという。
「じゃぁ、とりあえずヒッチでもしますか?」
と、大将から「ヒッチ病」の菌をもらってしまった僕は、東大生に提案した。
「そうですね…」 と彼が言ったので、僕はさっそく1台のトラックを止めた。
「三沢へ帰るところだけど、そこまででいいかい?」
と、運転している人のよさそうなお兄さんが言ってくれた。


車の中で、運転手のお兄さんはよくしゃべった。
話題は、間もなく甲子園球場で開催される高校野球のことである。
お兄さんによると、このたび、夏の高校野球選手権大会に、
北奥羽代表として、わが町三沢から、三沢高校が出場することになった。
大田幸司という素晴らしい投手がいる。
甲子園ではきっと大活躍してくれると思うので、大いに期待している…。
そんな話であった。
「はぁ、はぁ、…そうですか?」
と、僕と東大生はあいづちを打ったが、よもやその三沢高校が、
2週間後、東北の高校として初めて決勝戦まで進出し、
松山商業と延長18回、引き分け再試合という史上最大の死闘を演じ、
日本中を沸かせることになるとは、むろん夢にも思わなかった。
そのとき、国民的ヒーローになったのが三沢の大田幸司投手であった。
彼は決勝戦の延長18回を、一人で投げ抜いた。
そして、再試合の翌日も、一人で投げ抜いたが、力尽きて敗れた。


去年の夏の高校野球は記憶にまだ新しい。
早稲田実業駒大苫小牧の決勝戦が、引き分け再試合になった。
新聞、テレビは 「37年ぶりの引き分け再試合」 と報じ、
1969年当時の大田幸司投手の映像が繰り返し放映されていた。
大田幸司から37年経って、今度は 「ハンカチ王子」 が脚光を浴びた。
僕は去年の夏、そうした報道に接しながら、37年前の、
このトラックを運転するお兄さんの顔と口調を思い浮かべていた。


三沢に着き、東大生と僕はトラックから降りた。
僕らは、親切で話し好きなお兄さんに丁寧にお礼を言って別れた。
「僕は八戸に訪ねて行くところがあるのですが、あなたはどうしますか?」
僕は、東大生に尋ねた。
「膝の調子が悪いので、先に行ってください。僕はマイペースで行きますから」
彼はそう言って、
「じゃ、大阪まで、健闘を祈ります」 と、僕を見送ってくれるかたちになった。


僕は、また一人になって、三沢から八戸に向かって、ペダルを踏み始めた。