67 平泉 幻の毛越寺

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第67回



夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡


中尊寺の続きである。
金色堂へ行き、窓口でサイン帳を出して、スタンプをください、と言ったら、
「50円頂戴します」 と言われた。 
ん? 有料? スタンプを押してもらうのに50円? 
なんと、営利主義な寺じゃないか、と思いながら50円を払ったら、窓口のお爺さんが、僕のサイン帳の1ページに、スタンプ、ではなく、朱の筆で、
「五月雨の 降残してや 光堂  昭和44年8月9日 金色堂… 」 
と、堂々たる筆致で、したためた。
出来上がったサイン帳を受け取ると、50円ではもったいないような、壮麗な1ページと化していたので、ヘヘェ〜と恐縮するほどであった。一瞬でも 「営利主義」 と疑ったことを、反省した。


平泉は、芭蕉が 「奥の細道」 で訪れた場所である。
光堂、とは、この金色堂のことである。


  五月雨の 降残してや 光堂


この句碑が、金色堂のそばにあった。





   金色堂





金色堂のすぐそばに、「五月雨の…」の芭蕉の句碑があった。




自転車旅行の前半は、福井、石川、富山、新潟、山形、秋田と、「奥の細道」のゆかりの場所を通過してきたけれども、それより北には、もちろん芭蕉の足跡はない。6月27日に通過した象潟を最後に、「奥の細道」は中断していた。今、一月半ぶりに、ふたたび芭蕉が足跡を残した土地に戻ってきた…。


僕は、サイン帳を見ながら、もう一句のことを、考えていた。


  夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡


これも芭蕉の、あまりにも有名な句である。


この句も、近くのどこかに碑があるはずだ。 どこなのだろう … と、いま、字を書いてもらったばかりの窓口のお爺さんに尋ねたら、「ここには、ないよ」 と言われた。
え? え…? ここじゃぁない?


あの、芭蕉の 「一代の絶唱」 と言われる句の碑が、中尊寺にない?


「ここでなかったら、どこにあるんですか?」
「もーつーじ、だよ」
「もーつーじ? …なんですか? もーつーじって?」
老人は傍らのメモ用紙に、「毛越寺」 と堂々たる楷書で書いて、僕に示した。
「もうえつじ…?」
「… ではなくてね、もーつーじ、と読むのだよ」


平泉は中尊寺がすべて、と思い込んでいた僕は、毛越寺を知らなかった。
「へぇ、そうだったんですか。 中尊寺にあるとばかり思っていた」
僕がそう言うと、老人は、
「ここから遠くないから、行って来なさい」 
と言いながら、メモ用紙をくしゃくしゃっと丸めた。



平泉ステーションホテルに戻った僕は、預けていた自転車を出して、平泉をあとに、国道4号線を、一関方面に向かって走り始めた。


毛越寺へは …?


ホテルに戻って自転車を出したら、足は自然と南へ向く。
反対方向へ行こうというきは、なかなかしない。
なんだかんだ言っておきながら面倒になり、毛越寺はパスすることにした。
中尊寺のお爺さんは、勧めてくれたけれども…。


自転車旅行と観光の充分な両立は、精神的にも、肉体的にもむずかしい。今度は、自転車でなく、お気軽な観光旅行で、ここへ来ることにしよう。のんびりと、あの乗り合い馬車にでも揺られながら。そうだ 、 また、いつでも来れるのだ…。


… と、そのときは思ったけれど、それ以来37年間、毛越寺には行けないままだ。


残念といおうか、しまったといおうか、あたしってバカよねぇといおうか…。




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このブログは、旅行のすべての資料を引っ張り出して作っているのだが、不思議なことに、旅のサイン帳をめくって行くと、この、貴重な、金色堂の、お爺さんが書いてくれたページ部分が、欠落している。つまり、前後はあるのだけれど、その壮麗な1ページだけが、ないのである。そこだけを大事に切り取って、どこか他のところに保管した可能性が大きいが、どこへどう保管したのかも記憶にないし、この章を更新するに当たって、あらためて家中を探し尽くしたのであるが、無駄骨に終わってしまった。ぜひ掲載したかったのに…。


う〜ん。 くやしい!!  
あたしってバカよねぇ…。


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参考までに…
毛越寺芭蕉の句を掲載します。
毛越寺のHPから転載)



夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡