69 石巻の子どもたち

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第69回



高校の庭にテントを張ると子どもたちがやって来て




夕方、石巻工業高校というところの前を通ったので、学校へ入って行き、当直の先生らしき人に校庭の隅にテントを張らせてくれ、と頼んだら、快く許可してくれた。
ちょうど北上川の川開だったので、花火が打ち上げられており、ドドーン! という大きな音が、この校庭にまで響いてきた。


小学校上級生ふうの男の子3、4人が物珍しそうにテントに近づいてきた。
そのうちのひとりが、
「兄ちゃん、どこから来たの?」
と、テントの外であぐらを組んで缶詰をほおばっていた僕に訊く。
「大阪からや。…モグモグ」
「ふ〜ん。ずっと自転車で走っているの」
「そや、ずっと自転車や。 …モグモグ」
やがて、僕の自転車を見て、そこに貼り付けてあった僕の名前を、声を出して読んだ子がいた。 そして…
「え? お兄ちゃん、『巨人の星』 のヒト?」
と叫んだのである。


よく言われることなので、僕は別に驚かなかった。


巨人の星』 の漫画を描いたヒトと、僕とは、同姓同名なのだ。
梶原一騎は原作者で、漫画を描いたヒトではない)


疲れていた僕は、面倒だったので、
「ああ、そうや。 僕が、そのヒトや。 このごろな、漫画に描く材料が無くなったんで、
 こうして自転車旅行をして、社会勉強を兼ねて取材しているねん」
そう言って、
「もう寝るから、はよ帰り」
と子どもたちを追い払った。


すると、しばらくすると、ぞろぞろと10人以上の子どもたちが、僕を見るために、やってきたのである。


ひとりの子どもが、
「ねぇみんな、このヒトが、巨人の星を描いているお兄ちゃんなんだよ」
と、得意げに説明をし始めたのである。
「サイン、ほしい!」
と後ろから誰かが声を上げた。


ううううううう〜。
僕は、困った。とても困った。
引っ込みがつかない。
… 仕方なく、
「あ〜、ごめんごめん。 今、もう寝るところだからね。 明日おいで。そのときに、サインしてやるからさ」
と、いつのまにか、言葉も、大阪弁から標準語に変わる僕なのであった…。


翌朝。 まだ誰も起きていない早い早い時間にテントを片付け、僕は石巻工業高校の校庭から姿を消した。
夜逃げ、ならぬ朝逃げである。


テントを張っていた場所に、子どもたちがサイン帳を持って、やって来たであろうことを思うと、胸が痛んだ。僕は、子どもたちの夢をもてあそんだ悪いお兄さんだ。


…ごめんね。


当時の日記を読み返す度に、慙愧の念に耐えなくなる。
せめて、テントの場所に、何かメッセージを残しておけばよかったなぁ、と今になって思う。


たとえば…


「 諸君。 私は消えた。 これが、消える魔球なのだ。あはは 」


消える魔球、というのは、星飛雄馬の秘密兵器であることは言うまでもない。




            



実はこの文章は、2年前の「僕のほそ道」というブログに書いたものをそのまま掲載したものである。この話には、多少の脚色はあるが、だいたいは事実に基づいている。ただし、最初に小学校上級生ふうの男の子3、4人がやってきた、というのは、僕の記憶違いで、事実とは異なっていた。 


今回、当時の写真を見てみると、その子どもたちの年齢はバラバラで、人数も3、4人ではなく、全部で5人、女の子も2人いる。写真を見ているうちに、そのときのことを、はっきり思い出した。僕が、ガムをあげた子が、お菓子屋さんの子どもだったりしたんだ。


最初にやってきたのはこの子たちであり、中でも一番大きな男の子は、とても思いやりのある子で、他のこどもが僕のテントのまわりで騒ぐと、
「やかましいよ。この人は疲れているんだから」 
と言ってくれる。
そして僕に、
「兄弟はいるの?」 と聞くので、
「いない」 と答えたら、
「じゃあ、大事にしてもらえるね」 などと、大人のようなことを言った。
まだ小学生なのに、僕などより、よほど出来た少年であった。




  
    この写真が、その子どもたちと撮ったものである。
    一番右端の男の子は、とてもよく出来た子だった。


    ……………………………………………………


聞けば、石巻市はゴレンジャーや仮面ライダーで知られる、
石ノ森章太郎のふるさとで、今では石ノ森萬画館というのもあり、
この地域は、官民一体となって漫画文化の発信基地をめざしている、という。

     38年前に石巻に現れたニセ漫画家は…
      忸怩たる思いで当時を思い出すのである。