68 平泉から石巻へ

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第68回



途中で自転車で転倒して怪我をする




 



8月9日。平泉の中尊寺を出て、この日は石巻まで行く予定である。一関市内を走っていたとき、この旅行で最大のアクシデントに遭った。


追い風に背中を押されつつ、かなりのスピードを出していたのだと思う。


ギアを切り替えたその瞬間…。
ガクン! 
と、いきなり、体が前にのめった。
ギアの歯とかみ合っていたはずのチェーンが、外れたのだ。
もちろん、その瞬間には、何が起こったかわからない。
ペダルが、クルクルクルっとカラ回りした。
僕の脚は、ペダルから外れて空を切るかたちになった。
体は支えを失い、バランスが大きく崩れて、前方につんのめるように、自転車ごと横転し、道路上に叩きつけられた。


すぐ後ろで、車が急ブレーキをかける音がした。


頭を打たなかったのが幸いだった。
体重45キロの軽い体が、転んだときの衝撃をやわらげたのだろう。
大きな怪我は、なかったようだった。
それでも、左の肘からかなりの血が出ていた。
自転車を寄せて見ると、ハンドルが歪み、元に戻らない。
曲がったハンドルのまま、自転車を押して歩いていると、
自転車店が見つかったので、そこで直してもらうことにした。


店の人は、僕の肘から血が出ているのを見て、
「転んだの? 危ないねェ…」
そう言いながら、僕の肘に消毒液をかけてくれ、赤チンを塗ってくれた。
それが沁みて、飛び上がるほど痛かった。


…調子に乗って、スピードを出しすぎると、こんなことになる。
僕は気を引き締めて、自転車店を後にした。


一関を出ると、間もなく宮城県に入った。


そのあと、国道4号線からそれて、進路を左にとり、石巻に向かった。


石巻は、大勢の人出で、とても賑わっていた。
駅の近くへ行くと、巡査が出て、交通整理までしていた。
石巻の駅前には、


祝 石巻 川開まつり 8月8日〜8月10日


という、四角錐の大きな看板が、ドヨヨ〜ン、と立っていた。


混雑の中、駅前の食堂に入って、220円のカタ焼きそばを食べる。
ついでに、マーケットに入って缶詰などの食料を買い、店のおばさんに
「にぎやかですね〜」 と話しかけると、
「日本全国から人がやってくるんだよ。花火もあってねぇ。
 ここの花火は、日本一なんだから」
おばさんの表情は、誇らしげだった。







石巻駅前は、川開きのお祭りで賑わっていた。
左の看板には、「祝石巻川開まつり 8月8日〜8月10日」と書かれていた。




その日は、どこへ泊るというアテもなかったのであるが、
通りがかった石巻工業高校へ入って行き、当直の先生に頼んで、校庭の隅に、テントを張らせてもらうことにした。


















67 平泉 幻の毛越寺

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第67回



夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡


中尊寺の続きである。
金色堂へ行き、窓口でサイン帳を出して、スタンプをください、と言ったら、
「50円頂戴します」 と言われた。 
ん? 有料? スタンプを押してもらうのに50円? 
なんと、営利主義な寺じゃないか、と思いながら50円を払ったら、窓口のお爺さんが、僕のサイン帳の1ページに、スタンプ、ではなく、朱の筆で、
「五月雨の 降残してや 光堂  昭和44年8月9日 金色堂… 」 
と、堂々たる筆致で、したためた。
出来上がったサイン帳を受け取ると、50円ではもったいないような、壮麗な1ページと化していたので、ヘヘェ〜と恐縮するほどであった。一瞬でも 「営利主義」 と疑ったことを、反省した。


平泉は、芭蕉が 「奥の細道」 で訪れた場所である。
光堂、とは、この金色堂のことである。


  五月雨の 降残してや 光堂


この句碑が、金色堂のそばにあった。





   金色堂





金色堂のすぐそばに、「五月雨の…」の芭蕉の句碑があった。




自転車旅行の前半は、福井、石川、富山、新潟、山形、秋田と、「奥の細道」のゆかりの場所を通過してきたけれども、それより北には、もちろん芭蕉の足跡はない。6月27日に通過した象潟を最後に、「奥の細道」は中断していた。今、一月半ぶりに、ふたたび芭蕉が足跡を残した土地に戻ってきた…。


僕は、サイン帳を見ながら、もう一句のことを、考えていた。


  夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡


これも芭蕉の、あまりにも有名な句である。


この句も、近くのどこかに碑があるはずだ。 どこなのだろう … と、いま、字を書いてもらったばかりの窓口のお爺さんに尋ねたら、「ここには、ないよ」 と言われた。
え? え…? ここじゃぁない?


あの、芭蕉の 「一代の絶唱」 と言われる句の碑が、中尊寺にない?


「ここでなかったら、どこにあるんですか?」
「もーつーじ、だよ」
「もーつーじ? …なんですか? もーつーじって?」
老人は傍らのメモ用紙に、「毛越寺」 と堂々たる楷書で書いて、僕に示した。
「もうえつじ…?」
「… ではなくてね、もーつーじ、と読むのだよ」


平泉は中尊寺がすべて、と思い込んでいた僕は、毛越寺を知らなかった。
「へぇ、そうだったんですか。 中尊寺にあるとばかり思っていた」
僕がそう言うと、老人は、
「ここから遠くないから、行って来なさい」 
と言いながら、メモ用紙をくしゃくしゃっと丸めた。



平泉ステーションホテルに戻った僕は、預けていた自転車を出して、平泉をあとに、国道4号線を、一関方面に向かって走り始めた。


毛越寺へは …?


ホテルに戻って自転車を出したら、足は自然と南へ向く。
反対方向へ行こうというきは、なかなかしない。
なんだかんだ言っておきながら面倒になり、毛越寺はパスすることにした。
中尊寺のお爺さんは、勧めてくれたけれども…。


自転車旅行と観光の充分な両立は、精神的にも、肉体的にもむずかしい。今度は、自転車でなく、お気軽な観光旅行で、ここへ来ることにしよう。のんびりと、あの乗り合い馬車にでも揺られながら。そうだ 、 また、いつでも来れるのだ…。


… と、そのときは思ったけれど、それ以来37年間、毛越寺には行けないままだ。


残念といおうか、しまったといおうか、あたしってバカよねぇといおうか…。




  ………………………………………………………………


このブログは、旅行のすべての資料を引っ張り出して作っているのだが、不思議なことに、旅のサイン帳をめくって行くと、この、貴重な、金色堂の、お爺さんが書いてくれたページ部分が、欠落している。つまり、前後はあるのだけれど、その壮麗な1ページだけが、ないのである。そこだけを大事に切り取って、どこか他のところに保管した可能性が大きいが、どこへどう保管したのかも記憶にないし、この章を更新するに当たって、あらためて家中を探し尽くしたのであるが、無駄骨に終わってしまった。ぜひ掲載したかったのに…。


う〜ん。 くやしい!!  
あたしってバカよねぇ…。


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参考までに…
毛越寺芭蕉の句を掲載します。
毛越寺のHPから転載)



夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡








66 平泉 中尊寺

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第66回



藤原三代の栄華と 義経最期の地・平泉をめぐる





  中尊寺




平泉で泊まった安ホテルでは、夜も、同じ部屋の泊り客同士がベッド越しに会話を交わし、アレがどうの、コレがこうのと、うるさくて仕方なかった。


夏休みも盛りになって、平泉のような観光地には、全国から人が集まってくる。1泊500円のステーションホテルの部屋には、学生みたいなのがウヨウヨいる。もちろん、僕もそのウヨウヨ族の中のひとりであるのだが…。それでも僕は、夜はすぐ眠くなるので、たいていは、おとなしくしている。


その日、部屋の中は、一人旅の宿泊客がほとんどだったが、中にひとり 「論客」 がいて、マルクスの 「資本論」 について滔々と述べるのだ。その声が耳に響いて、疲れた体をゆっくり休める気分に浸れない。まぶたが重くなり、ウトウトし始めると、
「ベンショウホー的ユイブツ論によるとだなぁ、シホン主義社会の矛盾はだなぁ…」
などとカン高い声が耳に飛び込んできて、目が覚めるのである。


山の中で一人寝ていると、あまりの静けさに心細くなって眠れないし、賑やかなところだと、これもまた、うるさくて眠れない…。
どうも困ったものである。




   
値段が値段だから、贅沢は言えない。






 
平泉の駅前では、「乗り合い馬車」が…




翌日、ステーションホテルで精算したあと、自転車と荷物を預けたまま、僕は、歩いて中尊寺の見学に出かけた。


参道に 「月見坂」 という標識が建っていた。
そこを上って行くと、すぐに 「弁慶の墓」 があった。
そばに、弁慶堂、というのもある。

途中で見晴らしのいいところに出て、国道4号線と鉄道の向こう側に、うっすらと川が見えたので、そのへんの人に、
「あれは北上川ですか?」 と尋ねると、「衣川だよ」 という答えが返ってきた。




 
衣川が見える




北上川と衣川の区別もつかない僕だけれど、衣川といえば、義経や弁慶が、討死をしたところとして、地名としての知識だけはある。
「はあ…。 あれが、衣川 … なぁ」
もともと地勢に不案内な僕なので、なかなかピンと来ない。
じゃぁ、北上川は、どこへ行ってしまったのだ?








  








本堂を通り過ぎて、さらに奥へ行くと、讃衡蔵というところがあり、中尊寺の拝観券が、150円で販売されていたので、それを買った。そして、中尊寺に伝わる、多彩な国宝や、文化財を見て歩いた。義経主従と藤原秀衡が対面している絵画に、何となく、胸に迫るものを感じた。



 






65 雨ニモ負ケズ…

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第65回



花巻は宮沢賢治のふるさとでもある






高村山荘のふところに抱かれての野宿。 そういえば、格好いいが…。
夜中に、雨が降った。人家から遠ざかった山林で、雨の中、たった一人でテントで夜を明かすのも、これが高村山荘でなければ、臆病な僕などには、とても出来るものではない。寝袋の中に頭まですっぽりうずめ、体を折り曲げて身を守る体勢で横になり、早く眠りに入ろうと、目を閉じたものの、ほとんど眠れなかった。


テントの外が明るくなり、雨も上がってから、安心感とともに眠気が襲ってきた。朝方に、ようやく数時間、熟睡することができた。


8月8日。今日は母の42歳の誕生日だ。
10時に高村山荘を後にした。山道を下り、再び田園に囲まれた道を、花巻市街めざしてゴトゴト走っていると、夏の盛りだというのに、肌寒い風が顔を撫でる。昨夜の、あの何とも言えぬ寂寥感は、すでに薄れつつある。朝は、心の中も、外の世界も、すべて真新しく甦らせてくれる。


花巻駅を過ぎ、国道4号線に戻り、南下して間もなく、左手の道に入る。


しばらく走ったところで、宮沢賢治の 「雨ニモ負ケズ」 の碑の前に着いた。北上川が、すぐそばに流れていた。横に、「よくまあ、おいでくださいました」 という看板があった。そして、「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はない」 と書いてあった。


碑の前には花筒があり、花が一杯添えてあった。何かの本に、この碑の下には賢治の遺骨が埋められていると書かれていた。(遺骨ではなく、遺髪だったかもしれない)。もしそうだったとしたら、この碑は、賢治の墓碑でもある。


碑文は、「雨ニモ負ケズ…」 の後半部分が彫られている。
高村光太郎の書になるものである。


野原ノ (松ノ) 林ノ陰ノ小サナ茅ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ
……


この碑が出来た後、高村光太郎は、四ヵ所、刻字に字句の脱落があることを知った。たとえば、「野原ノ」 と 「林ノ」 の間に、 「松ノ」 が抜けていた。それら四ヵ所に、光太郎は自らノミをふるって、抜けていた字句を追加したという。ちょうど、原稿用紙のマス目の枠外に、あとから字を書き加えたような感じである。そういうところを見ていると、ますますこの碑に、親しみを覚えてくる。




     
「野原ノ」 の右に 「松ノ」 が刻まれている。
見難くてすみません。





     




また自転車に乗り、4号線に戻り、ひた走る。
北上駅に着いて小休止したあと、再び出発。
空模様が気になった。


明るかった空が、徐々に薄い雲に覆われ始め、その雲がだんだん厚くなり、あれれれ、と思っているうちにポツポツと降り出してきた。
「またか…」
うんざりして空を睨むと、雨はそれをあざ笑うかのように勢いを増し、本降りになってきた。きょうは顔を洗っていなかったので、石鹸をあわ立てて顔に塗り、走りながら、ちょうどシャワーを浴びるように雨水を浴びて顔を洗おう…そんなことを思ってみたが、もちろん、思ってみただけである。本当にそんなこと、するわけアリマセン。


雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ 坂道ニモ負ケズ 野宿ニモ負ケズ 空腹ニモ負ケズ…サウイフモノニ ワタシハナリタイ


ゼンゼン サウイフモノニ ナレナイ ワタシデス …


びしょ濡れになって、水沢駅に到着した。駅で顔を拭き、待合室で休憩する。ラジオでは、台風8号が接近している、とか言っている。しかし、天気予報では、きょうはこんなに雨が降るようなことは言っていなかったのである。ダマされたような気分だ。もっとも、天気予報にはこれまでもずっとダマされっぱなしだけど…。


30分ほど経って、雨は小降りになった。 
チャンスだ。 行こう。







気合を入れなおして、水沢駅を出発する。細かい雨が降り続く中、ただひたすら南へ南へとペダルをこぐ。平泉に着き、そこで見つけたステーションホテルへ飛び込んだ。幸い、空きベッドがあった。はぁ〜〜〜〜〜〜〜ぁ。一息、ついた。


一部屋に二段ベッドがいくつも並ぶ寄宿舎のような宿だったが、
僕はベッドに座ると、着ていたものを全部脱ぎ、洗濯機を借りて洗い、
さっぱりとしてホテルを出て、近所にあったそば屋に入った。
そのそばの、おいしかったこと…。
筆舌に尽くしがたい味、とはこのことか。
まぁ、もっともこういう状況だと、何を食べてもそうなっただろうけど…。
そば屋を出るとき、その店の看板を見た。


芭蕉そば」 という名前の店だった。


そういえば、花巻駅で、「賢治もなか」 というのがあったっけ。
そう思ってまわりを眺めると、その向かいに、 「西行うどん」 という看板があった。





この日はここで泊まった。









64 智恵子展望台

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第64回



高村山荘の裏手にある智恵子展望台に登り、夜はテントで




 あれが阿多多羅山、


     あの光るのが阿武隈川
     



  
高村光太郎の詩集。
特に「智恵子抄」は、十代の頃からの愛読書だった。



高村山荘の背後の小高い山へ登るのが、次の目標である。
標識に従って、智恵子展望台をめざした。
山道に入り、草深い道を腰をかがめて登って行くと、しばらくして視界が開けた。草むらの空間に立っている木に、「智恵子展望台」 という文字が彫られていた。


山荘の説明板には、この展望台のことが、こう書かれている。


   智恵子展望台は、故人(光太郎)が好んで散策した丘陵で、
   夜陰たまたまこの岡に立ち、亡き夫人の名を呼びしと、
   里人の云い伝えたことからこのように名づけられた。


「智恵抄」 は、僕にとっても、忘れ得ぬ一冊である。
十代の頃に初めて読んだその詩集は、40年経った今でも、
脈々と、熱く、心の中を流れ続けている。


この時も、小高い丘陵に立ち、亡き智恵子を偲ぶ光太郎の心情に思いを寄せると、胸が張り裂けるような感慨に襲われ、まぶたが熱くなってくるのだった。




  
智恵子展望台。
ここには、これがあるきり、だった。



   
智恵子展望台から撮る。



    「 案内 」  高村光太郎 

 
    三畳あれば寝られますね。
    これが水屋。
    これが井戸。
    山の水は山の空気のやうに美味。
    あの畑が三畝、
    いまはキヤベツの全盛です。
    ここの疎林がヤツカの並木で、
    小屋のまはりは栗と松。
    坂を登るとここが見晴し、
    展望二十里南にひらけて
    左が北上山系、
    右が奥羽国境山脈、
    まん中の平野を北上川が縦に流れて、
    あの霞んでゐる突きあたりの辺が
    金華山沖といふことでせう。
    智恵さん気に入りましたか、好きですか。
    うしろの山つづきが毒が森。
    そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
    智恵さん斯ういふところ好きでせう。




八月の陽が、ゆっくりと傾き始めた。いつまでもぼんやりと過ごしていたかったが、間もなく夕闇が迫ってきそうである。ここは山の中であり、街灯ひとつあるわけではない。早くしないと、テントの設営ができなくなる。僕は急いで山道を下り、自転車を移動させて、テントを張れる場所を探した。山荘のそばにあった光太郎の詩碑の前に自転車を止め、ちょうどテントを張りやすい場所が見つかったので、そこに決めた。


どうにか、明るいうちにテントを張り終えて一段落し、パンを出して食べた。物音ひとつしない完璧な静寂が、周囲を包んでいた。もちろん、記念館も閉館したし、もうこのへんには、誰一人としていないはずである。



  




日が暮れるとともに、あたりは漆黒の闇となり、まったく何も見えなくなった。テントの中の明かりを消すと、首を外に出しても、目を閉じているのと同じ状態で、見事に何も見えず、100パーセント真っ暗闇の世界であった。 月も星も出ておらず、どこが空でどこが山でどこが地面なのかも、判然としない。


夜中、トイレに行きたくなって外へ出た。 しかし…、闇の中では勝手が悪い。右も左も、前も後ろも、真っ暗である。 自分の手足さえ、見えないのだ。 「いつもの体勢」 に、なかなか入れない。


 〜 ふ〜む。 困った。 しないわけにはいかないし… 〜


目と鼻の先にカモシカが立っていても、熊が寝転んでいても、わからない。


見えないところへ放尿する…というのは、かなり勇気のいることであることがわかった。… などと、妙なことに感心している場合ではなかった。「よ〜し」 と一呼吸入れ、僕は、目標の定まらぬおしっこを、闇に飛ばした。


全てが死に絶えたような闇と静寂の中で、手探りでテントの中にもぐり込み、寝袋にくるまっても、なんだか落ち着かず、ほとんど眠れぬ一夜を過ごした。


    ………………………………………………………………………


僕がテントを張った前にあった 「雪白く積めり」 の詩碑は、 昭和33年 5月15日 に除幕されたそうである。それから毎年、この日に 「高村祭」 というのが開催されている。
下の写真は、今年の高村祭。花巻市のホームページに掲載されていた。この写真の場所は、当然、詩碑の前のはずである。 僕は、この辺でテントを張っていたのであろうか。





  「高村祭」の風景。

     




63 高村山荘

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第63回



詩人高村光太郎が晩年に一人で住んだ山荘へ、ペダルをこぐ







僕は、何の飾りっ気もない田園風景の中を、ひとり黙々と走る。
農村から山村へと景色が移ろい、やがて人家からも遠ざかって行く。
高村山荘は、山林の中にあった。






(この写真はパンフレットから転載したもの。右の小さな建物は便所)



      
山荘は、山の斜面にかかる湿っぽい所に建っており、雑木が覆いかぶさっている。
外から見るかぎりでは立派な建物のようであるが、これは套屋といって、
実際の小屋の上にかぶせている新しい建物である。
だから、本物は、粗末な小屋である。


僕は、人影のない山荘に近づいて、中を覗いた。
さむざむとした狭い土間を見ただけで、光太郎の生活が偲ばれた。
彼がここへへ移り住んだのは、終戦後間もない昭和20年の10月だった。
妻智恵子が亡くなってから、7年が経っていた。
そして、光太郎は7年間、ここで、独居自炊の生活を送った。


光太郎が住んでいた当時の環境を、そのまま復原しているのであろう。
狭い空間には、畳もなく、人が当たり前のように住めるところには、見えない。


壁に、本棚のような形をしたものが、4、5段、並んでいる。
1番下の棚には瓶が数本、下から2番目には飯盒とかお茶の葉などが置かれ、
その上に、書籍が並んでいる。


自虐的、とまで言われた光太郎の独居自炊の生活だが、
この光景を目の当たりにすると、寂しいとか、質素だとかを通り越して、
いたたまれないような、悲惨な生活を連想させる。 
真善美に生き抜こうとした光太郎の、高潔な理想主義を具現した山荘…
究極的には、そう表現することも出来るかもしれない。
しかし、僕など凡庸な人間は、この住居のひどさに目を背けてしまう。


山荘の隣に、便所の小さな建物があった。
入口の戸には、光太郎自身の手になる 「光」 という字が彫り抜かれていた。
いわば、高村光太郎の、サイン入りの便所である。
戸に、「使用しないで下さい」 と書かれた紙が貼られていた。
僕は、反射的に、あたりを見回した。
誰も、いない。
なんとなく後ろめたい気はしたけれども、千載一偶の好機である。
手を伸ばし、その戸を手前に引くと、ギィっと音がして、簡単に開いた。
僕はすばやく中に入り込み、そろっと戸を閉めた。
そして、小便をした。


… すっきりしたのか、しないのか、わからないような気分で、山荘をあとにし、
標識を頼りに、その近くにある高村記念館へ行った。
こちらは、山荘と違ってモダンな造りの新しい建物であった。
昭和41年建設、とあるから、まだ3年前に建ったばかりである。
ここには、受付があり、従業員がいて、切符を買った。
入場料は100円だった。
光太郎の彫刻、書、著書、遺品などが数多く展示されていた。
デスマスクもあった。
光太郎が使用したメガネ、というのもあった。
ほかに、服、下駄、長靴などもあったが、身体の大きかった光太郎らしく、
その下駄や長靴は、僕の足の2倍ほどもありそうだった。
入場者は、僕ひとりではなく、数人の女子高生らしいグループもいた。
彼女たちは、熱心に、光太郎の拓本を取っていた。



 
  
               高村記念館

   


山荘の近くに戻り、光太郎の詩碑の前に立った。
「雪白く積めり」 という詩である。


光太郎は、昭和20年10月から、27年10月までここに住んでいた。
雪深い東北の山村の冬を、7回過ごしたことになる。


この 「雪白く積めり」 は、光太郎がこの地で、最初に迎えた冬に、
作詩したものであると言われている。
(財)高村記念会というところが発行したパンフレットを、記念館でもらったが、
それによると、冬の厳しさは、


 「厳冬零下二十度、吹雪の夜は寝ている顔に雪がかかり、
  生きているものは自らと鼠とだけの夜を暮らし…」


そう書かれている。





 「雪白く積めり」 の詩碑。 山荘のすぐ近くにある。





(財)高村記念会発行のパンフレットから




また、同パンフレットでは、夏は…


  「虻やぶよにさいなまれる自耕に身をゆだね、
   自洗自炊の厳しき毎日であった」 


と書かれている。


たいへんな生活だったのだろう。
自分が、この山林の小屋で独居自炊の生活をすることになったら…
想像すると、絶望的な思いが、胸をよぎる。
しかし、光太郎の孤高の精神は、僕などに及びもつかないものだったに違いない。


   岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
   わたくしを囲んで仮借しない。
   虚偽と遊惰とはここの土壌には生存できず、
   わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
   ただ全裸を投げて前進する。
   私の心は賑ひ、
   山林孤棲と人のいふ
   小さな山小屋の囲炉裏に居て
   ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。
       高村光太郎 「メトロポオル」 (抄) 


山荘の背後は、小高い岡になっていた。
そこに 「智恵子展望台」 があるという。


僕は、次に、そこへ向かった。  








62 啄木・賢治・光太郎

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第61回



啄木の渋民村を出て、盛岡、そして宮沢賢治高村光太郎の花巻へ




8月7日。
青森方面へ行く水沢市の男性と、盛岡方面を目指す僕とは、方角が反対である。
僕が先に出発し、彼に見送られるかたちになった。
瞬間的な出会いと別れとが、めまぐるしく繰り返される旅行である。


昨日、歌碑の前で、もう一人、サイクリストに会った。
その人は、1日200キロを走って北海道を目指している、と言っていた。
1日の走行距離としては、僕の倍である。
サイクリングでも、いろいろな人がいる。
とてもではないが、そういう旅行は、僕には出来ない。


昼前に、盛岡駅に着いた。
盛岡駅前に、ドーンと啄木の歌碑があり、駅のスタンプにはその歌が添えられていた。



      

    












盛岡駅で休憩したあと、郵便局の本局へ行き、お金を2,000円下ろした。
それから、局留めの郵便物を受け取った。
札幌のサイクリストである加藤さんから、手紙が来ていた。
加藤さんには、危ういところを助けてもらったいきさつがある。
7月、稚内へ行く途中の郵便局で、現金を引き出そうと思ったが、
その日がちょうど日曜日で、結局引き出すことが出来ず、
ほとんど文無し状態になっていたところに、加藤さんら二人連れが通りかかった。
わけを話して3,000円貸してもらい、窮地を脱することができたのである。


その後、二人と一緒に稚内まで走ったのであるが、いま受け取った手紙の中に、
その時に写してもらったカラー写真が、何枚か入っていた。
稚内付近の道路上で撮った写真や、日本最北端の碑の前で撮った写真など。
真っ黒に日焼けした自分の顔が、別人のように見えた。


 
その写真の1枚。


これまで、フィルムが1本終了するたびに自宅へ郵送していたから、
この旅行で、自分が写っている写真を見るのは、これが初めてである。
あぁ、こんな感じなのか〜、と、その写真を眺めて、何となく心が波立った。
もう300枚近くなっているだろう旅行の写真を、家に帰ってゆっくり眺めたい…。
そんな思いが、突き上げるように僕の気持ちを揺さぶりはじめた。
またちょっと、ホームシック症候群、である。
やれやれ…。





盛岡から40キロ足らずで、花巻市に入った。










花巻駅のパンフレットに載っていた宮沢賢治自筆原稿。



花巻は、空港が近いせいか、上空を、飛行機が頻繁に飛び交っている。
駅で、200円のトンカツ定食を奮発したあと、近くにいた観光ガイド嬢に、
きょうの目的地である高村光太郎の山荘の場所を尋ねた。
そしてついでに、
「そこでテントを張りたいと思うのですが、大丈夫でしょうか?」 と訊いたら、
周囲は何もない山野だから、どこにでも張れると思う、という答えが返ってきた。
駅前の店でパンなどを買い込んだあと、山荘へ向かった。
しばらく舗装された道が続いたが、やがて左方向を示す矢印のある標識が立ち、
 高村山荘 4キロ
と書かれていた。
左に曲がると、道が急に細くなり、舗装もなくなった。
やや登りの道をエッサエッサと進んでゆくと、「大田村山口」 という標示があった。
古びた小学校の前を通り越してから、歩いていた人にまた道を尋ね、
教えられた寂しげな道を走ってゆくと、やがて行く手に高村山荘が現れた。


来たなぁ。 とうとう。


高村光太郎の山荘を訪れることは、自転車旅行の大きな目的のひとつでもあった。
目の前の、ごくありふれた民家にしか見えない山荘であったが、
僕にとっては、これまで何度も写真で見てきた、心の宝物のような建物である。


きょうは、ここでテントを張って野宿をする。
ぶるん、と、身体が震えた。