49 田名部から恐山へ

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第49回



大間崎を出発。田名部から急坂を上って恐山へ




 







翌8月2日。
函館から来るフェリーに、ひょっとして由見子嬢が乗っているのではないか…。そんな期待を持っていたが、昨夕の便にも、今朝の便にも乗っていなかった。日程的にも彼女が北海道を離れ、下北へやって来るのは今ごろのはずである。しかし、糠平で連絡を取り合えなかったので、それ以上のことはわからない。
「会ってみてぇな、彼女にさぁ」
と繰り返す大将に、ひと目由見子嬢を会わせてあげてみたいと思うのだけれども、連絡を取るすべがなく、かくなる上は、ばったり出会う幸運を頼むしかなかった。


ただ、最後の望みは、なくもなかった。…むつ市にある下北ユースホステル。由見子嬢は、以前にたしか、下北半島ではそこに泊まる、と言っていた。今日は恐山へ行くので、下北ユースホステルは明日の予定だ。
「あした、むつ市で会えるかも知れんしね。まあ大将、望みは捨てんと…。会えることを信じることや」
僕は大将を励ました。


自転車に荷物を積み、大将と僕は大間崎を出発した。海岸沿いの国道279号線を、大畑・田名部方面へ向かってペダルを踏んだ。








    
  下北の漁港。

 
  

 海の水は冷たく、風は肌寒い。




途中の海岸で、数人の男たちがアワビを獲っていた。
それを見た大将は自転車を止め、「オレにも獲らせてくれぇ」 といきなり服を脱いでパンツ一枚になり、そこに置いてあった誰かの水中メガネと手鉤のようなものをつかんでドボ〜ンと海中に飛び込んで行った。それはわずか1分ぐらいの出来事であり、僕はあっけにとられて大将が海中に消えて行くのを眺めた。


波が強く、手を濡らすと、海の水はとても冷たかった。よくこんな冷たい中へ飛び込んで行けたものだと大いに感心していると、やがて海の中から姿を現した大将の手に、しっかりとアワビが握られていた。
「どうだい。うめえぞ、こいつは!」
と僕にそれを手渡して、また海中へ潜って行った。
僕は驚きで、言葉も出なかった。
大将のこのバイタリティーには、とてもかなわない。


さすがに大将も、寒かったのだろう。 二つ目のアワビを持って上がったら、もう二度と海に入るとは言わず、小刻みに震えていた。アワビを口に入れると、コリコリして絶妙の味がした。襟裳岬付近で、生のウニを食べさせてもらったことがあったが、このアワビはあのウニ以上に美味しい、と思った。
横で、大将がブルブル震えながら、
「さすがの俺も、寒くなったぜ」
と言って、シャツを着た。


坂本竜馬にあこがれ、司馬遼太郎の 「竜馬がゆく①立志編」 を携帯し、その本に貯金通帳をはさんで旅をしている大将には、ふたつ口癖があった。
ひとつは、
「俺はなあ。竜馬の生き方に共鳴するところがあるんだ」
「共鳴」 という言葉を、一日最低5回は口にした。
もうひとつが、
「さすがの俺も…」 なのである。
これも一日最低5回は口にする。
「さすがの俺も、これじゃぁ風邪を引きそうだ」
と、2回目を言ったところで、では行くか…ということになり、再び出発した。


昼頃に田名部に着いた。ここから恐山への険しい道を登って行く。急勾配の登り道だ。自転車からはもちろん降りて、押して上がる。上りきると、今度はまっさかさまに落ちて行くような下り道。自転車に乗って下ったけれども、何か逆立ちをして走っているような気になる。この急勾配の下り坂を一気に下りきったところに、美しい湖が広がっていた。恐山の火口湖である宇曽利湖である。


やっと恐山に着いた…。
大将が、「さすがの俺もくたばったぜ」
とつぶやいたことは、言うまでもない。



    

  



田名部から恐山までは、険しい山道であった。