75 東京見物

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第75回



金子さんやフクダさん、そして大阪からの友人との再会








フランシーヌの場合は♪ と口ずさみながら寮へ帰ったのは午後9時半。同部屋の星さんは、もう仕事に出ていて、そこにはいなかった。この日もまた、僕は大将の部屋で、一人で寝ることになった。


8月15日。
朝、仕事から帰ってきた星さんから、少し話を聞かせてもらった。星さんは、福島県の出身だそうである。今の仕事は夜勤がほとんどなので、いつまで勤められるかわからない。仕事を辞めたら、福島県まで自転車で帰りたい。そして、できることなら、自転車で日本一周をしたい。そう言って、「いいなぁ、学生さんは…」 と僕を見て、笑った。


この日の10時半に、新宿の三越前で金子さんと待ち合わせをしていた。金子さんは、阿寒湖のユースホステルで会った女性である。金子さんの友だちの名取さんと、3人でオンネトーへ行った。二人とも、青山学院大学の学生だと言っていた。


その金子さんから、東京へ来たらぜひ寄ってね、と言われていた。そしておととい、金子さん宅へ電話をし、今日の待ち合わせとなったのだ。「東京見物に連れて行ってあげるわよ」 と金子さんは言ってくれていた。


金子さんは、僕との再会をとても喜んでくれた。彼女自身、あまり東京の地理には詳しくないようだったけれども、このために買ったという大きな地図を片手に、大奮闘をしてくれた。この人も、善意と親切のかたまりのような人だった。


北海道で、僕が落語が好きだと言ったことを覚えていた金子さんは、まず新宿末広亭へ、地図を睨み、人に道を尋ね、僕を案内してくれた。と言っても、末広亭の、建物を見ただけである。そのあと、山手線で移動して、原宿、明治神宮を歩き、東京オリンピックの水泳場、室内競技場を見てまわった。このときは、あの興奮の東京五輪から、5年が経っていた。




     
    明治神宮


霞ヶ関ビルにも行った。このビルは、前年の1968年(昭和43年)に完成した日本初の超高層ビルで、地上36階、高さ147メートル。 今や東京最大の新名所になっていた。ビルの周辺には、大勢の見物客が集まっていた。


渋谷を歩いていると、金子さんが
「あ、見て。 あのふたり。 ヒデとロザンナよ」
そう言って、近くを通り過ぎて行った男女を指さした。
ヒデとロザンナ! 
あの人気ペア歌手が、普通に街の中を歩いている…。
うーむ。 さすがは東京である、と感心した。


昼食には、ピザの店に入った。


「ピザのおいしいお店を知ってるの」 金子さんがそう言って、渋谷の 「トレヴィ」 という店に連れて行ってくれたのだけど、ピザなんて、食べたことがないどころか、言葉すら聞いたこともない。テーブルに着くと、金子さんが注文し、やがて運ばれてきたピザを、「これは、手で食べるのよ」 と言われて仰天した。箸かフォークを使うものだと思たのだが、手でつかんで食べるなど、インド人じゃあるまいし、なんだかしっくりとこない。でも、この食べ物はそうするのが作法だと言われたので、それに従った。


渋谷から、地下鉄に乗って銀座へ行った。
そして、三菱のタワー。
ソニーのビル。
日比谷公園
皇居…。

金子さんと僕は、再び銀座に戻って、喫茶店に入った。僕はクリームソーダを注文した。 280円だった。新宿の天丼は80円だったけど、銀座のクリームソーダは280円なのだ。


「今夜はうちに泊ってください。 母も会いたいと言ってるから」
金子さんにそう言われたので、好意に甘えることにし、彼女について中野区のお家にお邪魔し、夜はそこで泊めてもらった。金子さんのお母さんは、女優の高峰三枝子に似た美人で、陽気で話し好きな方だったから、会話が途切れることなく弾み、3人で、時間の経つのも忘れて夜遅くまでしゃべり続けた。


  ……………………………………………………………


翌16日、朝食を呼ばれたあと、金子さんと僕は、お家を出た。金子さんは、今日も途中まで僕に付き合ってくれるという。


「ウチには高校生の弟がいるんだけどね…」 と道すがらに金子さん。
「お客さんが来ても、いつもなら何の関心も示さないんだけど、 今朝、私たちが食事をしている時に、こっそり覗いていたわ」 
そう言って、彼女はケラケラっと笑った。
「弟は、よほどあなたのことが、気になったみたいね」


僕たちは、午前中は上野動物園と、東京駅へ行った。東京駅は大きすぎて、いつもならすぐに見つかる駅スタンプが、どこに置いてあるのかわからず、金子さんと二人でうろうろ探し回った。やっと見つけた東京駅のスタンプは、わずかに1個だけだった。




      
やっと探し当てた一個のスタンプ。




この日の午後2時に、大阪から来る大学の友人と待ち合わせていた。約束どおり、皇居の楠正成像前に、友人の木村クンが姿を現した。
「じゃぁ、私はこれで…」
と、金子さんは、木村クンにあいさつをしてから、
「大阪へ着いたら、お手紙ちょうだいね」 
と言って僕らに手を振った。


   ………………………………………………………


「おまえ、えらい日焼けしたなあ。 髪もぼさぼさに伸びてるやんか」
木村クンは僕の顔を穴の開くほど見つめて、懐かしそうにそう言った。


今度は木村クンとふたりで、東京見物の続きである。


有楽町から渋谷へ行き、NHK放送センターを見学した。今年の大河ドラマは、海音寺潮五郎原作の「天と地と」である。石坂浩二が、上杉謙信役で主演をしていた。新潟県直江津で、ご当地がこのドラマ一色だったことを思い出す。そのドラマのセットの模型をバックに、写真を撮ったりした。


来年の大河ドラマ「樅ノ木は残った」の宣伝ポスターも貼ってあった。スタジオではちょうど朝の連続テレビ小説 「信子とおばあちゃん」の収録をしていたところで、ガラス越しに、それを覗いたりもした。

 

   




僕は、木村クンに、先輩風を吹かせながら、渋谷周辺を案内した。


夕食に、木村クンを渋谷のピザ店「トレヴィ」へ連れて行った。僕は、昨日学んだ知識を彼に見せびらかしたかったのだ。店に入り、金子さんがしたように、ピザを注文して、木村クンに、「これは手で食べるもんや。 知らんかったやろ」 と、自慢したのだが、案の定、木村クンも、ピザなど食べるのは初めてで、
「手で食べるて…なぁ、ピザちゅうのはインド料理か?」
と、僕と似たようなことを言ったので、思わず笑ってしまった。久々の交歓を祝して、2人で、ビールも飲んだ。


今夜は2人でオールナイトの映画を見よう、と言っていたのだけれども、木村クンが、まさかピザにあたったわけでもあるまいが、急に腹痛を訴え出し、胸も悪くなったと言い、苦しみ始めた。


仕方なく、白老で知り合った明治大学のフクダさんの下宿へ電話した。幸いフクダさんがいたので、そちらへ泊めてもらうことにして、げろげろと唸っている木村クンを連れて、国立の下宿を訪ね、やあやあ、久しぶりだね〜」 と出てきたフクダさんと再会を祝し、
部屋に入れてもらって、さっそく木村クンを横にならせた。


「どう? 元気?」 とフクダさん。
「ん。 まあまあ…」 と、僕。
フクダさんが出してくれたウィスキーで乾杯をした。


東京での4日目も、あっという間に終わろうとしていた。









74 東京の街の中

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第74回



映画とかジャス喫茶とか…



東京へ着いたその日、新宿の大将の寮である「木村屋寮」に泊めてもらったが、大将と同室の星さんは、夜勤なので夜遅く出て行き、僕は部屋に一人で寝た。朝になったら、星さんは仕事から帰ってきた。僕は星さんと入れ替わりに部屋を出て、ぶらりと東京都内の散策に出た。


新宿駅の郵便局で、貯金を7,000円おろした。なにしろ東京だからなぁ…という思いから、いつもよりも多めにおろした。東京のガイドブックを片手に、伊勢丹へ行き、肩からさげるバッグを買った。このバッグがちょっと高くて、1,500円もした。《今となっては、なぜこんな高価なバッグを買ったのか、理由がわからない》


歌舞伎町に行き、映画館に入った。手塚治虫虫プロダクションのアニメ映画「千夜一夜物語」 。「世界で初の大人のためのアニメーション映画」 と宣伝されていた話題作だ。主人公は水売りのアルディンという男。顔はフランスの男優、ジャンポール・ベルモンドそのままだ。アルディンの声は、青島幸男である。アルディンが奴隷の美女ミリアムを見初め、数々の冒険を重ねてゆく。アニメだと思って軽く考えていたけれど、なかなか見応えがあった。この映画の声のチョイ役に、北杜夫小松左京が出ていた。
「声の友情出演」 だそうだ。
二人とも、僕の好きな作家だけれど、声の出演シーンでは、彼らのセリフがあまりに下手くそだったので、すぐに二人だとわかった。久しぶりの映画を堪能して、再び新宿の雑踏に出た。


西口の飲食店に入って、80円の天丼を食べた。そのあと、紀伊国屋書店の本店へ行ってみた。この年、 「新宿泥棒日記」 という映画が、学生の間で評判になった。美術家の横尾忠則が主演した前衛的な作品で、監督は大島渚であった。


ジャン・ジュネの 「泥棒日記」 をモチーフにしていたが、僕もこれを見た。この映画に紀伊国屋書店が協力をしていて、当時社長の田辺茂一も、出演者の一人として、映画の中で飄々たる役者ぶりを披露していた。田辺はテレビにもよく出演し、紀伊国屋=新宿というイメージが定着していた。それだけ有名な紀伊国屋書店だったが、行ってみると案外狭い店だった。


また、映画を見たくなった。
都会を歩き回るという生活を、もうずいぶん長い間していない気がする。映画を1本見ると、また続けて別の映画を見たくなる。


「アートシアターギルド」 というところで、大島渚監督の作品が公開されていた。
大島渚は「新宿泥棒日記」の監督である。 
僕はそこへ入り、「少年」という映画を見た。 
これが衝撃の映画であった。


子供連れの中年夫婦が、子供にわざと車に当たらせて賠償金を取るという、いわゆる 「当り屋」 の話で、実話に基づいたとされる映画であった。 はじめは、もちろん車に当たることを拒否していた少年だが、事情を理解し始め、また、当たったら100円もらえることにも動かされて、やがて継母(小山明子)に、自ら 「やろうか…仕事」 と言うようになる。車に飛び込む少年。実にうまく、車に触れただけで大げさに転倒する。継母が半狂乱になって駆けつけ、少年を抱き上げる。 父は物陰で隠れている。運転手が顔を真っ青にして、
「お金だったらいくらでも払います。どうか示談で」
と継母に懇願すると、横から少年が、呻きながら、
「バカにするな。金がほしくてやってるんじゃないや!」
と叫ぶ。まさに迫真の演技である。


そんなふうに、少年を当り屋にして、一家の全国行脚が続いて行く。そのたどる道が、敦賀、福井、富山と、僕の自転車のコースと同じだった。そして、北海道の最北端まで、この3人は流れて行くのである。先月訪れた日本最北端の風景を目にして、僕は身を乗り出した。当り屋をしながら大地の果てまで来た少年は、ぽつりと言った。
「もっと、日本が広ければいいのにね…」


映画 「少年」 が終わり、引き続いて予告編がスクリーンに映った。立とうとして、中腰のまま、しばらくその予告編を見た。「薔薇の葬列」という題で、モノクロの、グロテスクな映画である。ゲイの世界を描いた映画のようであった。 


…ふと、新潟のエミちゃんを思い出したが、映画のイメージはまるで違う。出演しているのは、俳優ではなく、全員が本物のゲイボーイらしい。うーん、こういうのを前衛ゲイ術というのか、と薄気味悪く眺めていると、ある場面で、主人公らしいゲイボーイが、両目から血を流していた。ギリシャ悲劇 「オイディプス王」 みたいな話のようである。予告編を見ただけでも、身の毛がよだちそうであった。その主人公を演じていた、気持の悪いゲイボーイが、後の池畑慎之介、つまりあのピーターだと知ったのは、ずいぶん後のことである。このときピーターは16歳。 ゲイの界隈では評判の美少年で、六本木でゴーゴーダンサーをしていたところをスカウトされたそうだ。


まぁ、いろいろあります…。


映画館を出ると、すでに、日が暮れかけていた。東京のガイドブックを見ながら、次の行き先を考える。一人ではなぁ、と少しためらいながらも、ジャズ喫茶に行くことにした。「灯」 という店に入り、2階席に座って飲物と軽食を注文した。


中央にステージがあり、ギターを片手に歌っているのは、本物の歌手なのか、歌手の卵なのか、素人なのか、わからない。客席から、曲に合わせて大合唱が起こることもある。何曲かの中で、「フランシーヌの場合」 を聴いたとき、胸が熱くなった。これまで特に好きな歌でもなかったはずなのに、なぜかわからない。


8時過ぎにそこを出て、電話局へ行き、大阪の自宅へ電話をした。東京でしばらく滞在することを知らせるためである。電話に出た母は、意外なことを僕に告げた。


「今朝、西島さんという人から電話があったよ」
「えぇっ! 大将からっ? どこから掛かってきたの?」
「いま大阪に来ているって言ってたけど…。
息子さんと一緒に走ってましたぁ、とか言って、切ったわよ」


やれやれ…。 ため息が出た。
青森で別れた大将は、今ごろ北陸あたりかと思っていたのに、もう大阪に着いていたのか…また、ヒッチハイクをしたのだろうか? いや、日数を考えてみると、むしろ僕の進み具合が遅いのかもしれない。


どっちにしても…
僕が新宿の大将の寮にたどり着いたとき、大将は大阪に着いていた。大阪で、大将は我が家に電話をしていた。 なんだか、おもしろい偶然である。


♪ フランシーヌの場合は あまりにもおバカさん …


さっきからそればかり口ずさみながら、僕は寮への帰途についた。





ジャズ喫茶「灯」でもらったパンフレットから。







73 東京へ

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第73回



東京に着き、新宿の大将の寮を訪ねる







水戸を出て、石岡、土浦、牛久と走り、取手で利根川を渡った。
利根川に架かる長い長い橋を渡ったら、ここから千葉県である。


そして我孫子、柏、松戸と進んで、今度は江戸川を渡る。
ここから東京都に入る。


めざすは、新宿の大将が住民票を置く寮である。
いま、大将は仕事を休職中で、自転車旅行中だ。
「東京へ行ったときは、必ず寄ってくれよ」
と、青森県で別れたとき、くれぐれも言われていた。
そこは、「木村屋寮」 というところである。
住所は、むろん大将から、手帳に書いてもらっていた。




 
いよいよ東京都内へ入った。




東京に入ると、当たり前のことだろうけど、車が多い。 信号も多い。


新宿というのは大体このあたりだろう、と、いい加減な見当をつけ、西へ西へと進んでいたつもりが、どういうわけか、前方に海が見えてきた。知らず知らずのうちに、東京湾へたどり着いてしまったのだ。


なんだこれは…と思いながら、道行く人に尋ねたら、ここは月島というところだと教えられた。
「ツキシマ…?」
そう言われても、わからない。 聞いたこともない地名である。まぁ、何を言われても、ほとんど知らない地名ばかりだけど…。


商店街のような人通りの多いところに、交番があったので、そこへ入った。
「新宿へ行きたいのですが…」 
と言ったら、おまわりさんは僕の風体を見て、
「自転車旅行かい? ほほぅ〜。 まぁまぁ、休んでいきなさい」
そう言ってもらえたので、僕は交番の表に自転車をとめて、中へ入った。
「暑いだろう? これ、飲んでよ」
と、氷の入ったソーダ水を出してくれた。
とても親切な、若いおまわりさんである。 


…と油断していると、隙を見て、拳銃を突きつけ、
「怪しげなやつ、な、名を名乗れぃ!」 
と言うんじゃないだろ〜な。
(な〜んて、ふと考えてしまう僕は、やっぱりアホか…)
もちろん、そんなことはせず、本当にやさしいおまわりさんであった。ソーダ水は甘く冷たく、さわやかな炭酸の味覚が、なんとも言えなかった。


新宿への道を教えてもらい、10分ぐらい話した後、外へ出ようとした。すると、驚いたことに、交番の前の狭い道が大勢の人たちで埋められている。何十人という人々が、ひしめき合って、僕の自転車を眺め、
「自転車で日本一周しているんだってよ」 
などと、口々に言い合い、そして中から出てきた僕を、わぁっ、とみんなで取り囲んだのである。


「さあさ、皆さ〜ん、道をあけてあげてくださ〜い」
と、おまわりさんは、僕のために「交通整理」をしてくれた。
そういえば、新宿の大将から餞別代りにもらったヘルメットに、「日本一周自転車旅行」 と書いてあったのが 「誤解」 を生んだのだ。大将は、贈り主である自分の旅のことをヘルメットに書いたわけだけど、それを自転車にぶら下げていたら、誰でも僕が日本一周だと思うだろう。まあ、せっかくそう思われたわけなので、わざわざ否定することもないし、にわかヒーローになった気分もまんざらではなく、僕はその人たちに、手を振って、おわまりさんにもお礼を言い、その場を離れた。まさか、東京みたいに、何があっても珍しくないようなところで、これほど珍しがられようとはなぁ…。 思いもしなかったことである。


月島の交番のおまわりさん、ありがとうございました。
ソーダ水、美味しゅうございました。
道に迷って、むしろよかったです。


交番できちんと方角を教わったはずなのに、皇居の付近を走っていると、また新宿への方向がどっちだったか、わかならくなった。


信号待ちで、きょろきょろしていると、単車のおじさんが近づいてきて、
「どこまで行くの?」 と尋ねてくれた。
新宿だと答えると、「どこから来たの?」 と質問した。
手短に旅行の内容を説明したら、おじさんはコックリと頷き、
「じゃぁ、新宿までオレが案内してやるさ。 ついて来なさい」
と言い、そこから、僕の自転車の速度に合わせ、何度も何度も振り返りながら、ゆっくりと先導してくれた。


だいぶ走ったような気がした。 
「お疲れさん。 新宿に着いたよ」
おじさんは、50歳前後に見えた。 もう少し、年配かもしれない。
「その木村屋寮ってのは、近くのはずだ。 まあ、お茶でも飲もう」
と、おじさんに誘われるまま、喫茶店に入った。僕はコカ・コーラを注文した。


「いやぁね、最初に君を見た時は、房総半島一周ぐらいしてるのかなって…」
と笑いながら、旅行の話を少し聞かせてほしいんだ、と言った。僕がひととおり話し終えたら、次におじさんは、自分のことを切り出した。


若い頃、親の反対を押し切り、テントで日本全国を旅行した経験がある。今も単車が好きで、近郊だけど、あちこち走り回っている。君を見ていると、若い頃の自分を思い出す…。


…そういう話であった。
僕が名刺を渡し、その人の住所を聞こうと手帳を取り出したら、おじさんはその手帳を手元に寄せて、僕からボールペンを受け取り、自分の住所と、詳しい地図を描き、もし木村屋寮というところで、何かの都合で泊めてもらえないようなことがあったら、遠慮なくうちに来て泊まりなさい、と言ってくれた。世田谷区の在住で、新宿から自転車で30分程度だという。


斉藤さん、と名乗ったそのおじさんは、別れ際に、「久しぶりに面白い話を聞かせてもらったよ。この旅行は、君の将来にとって、本当に貴重な経験だな」そう言って、きりっとした笑顔を見せた。


世田谷の斉藤さん、ありがとうございました。
コカ・コーラ、美味しゅうございました。
道に迷って、むしろよかったです。


それにしても、東京には親切な人が多い。
なんだか、イメージとは違っているな。


幸か不幸か、斉藤さんのお世話になる機会は来なかった。
そのあとすぐに探し当てた木村屋寮でも、歓迎を受けたのだ。
「はいはい、聞いているよ、西島さんからね〜」
僕を見るや否や、寮のおばさんは満面に笑顔を浮かべて
「よ〜く来てくれたわね。 この間、西島さんから電話があったわ」
そう言って、大将の部屋に案内してくれ、そこにいた同室の星さんという若い男の人と、もうひとり、田辺さんという男性に、僕を紹介してくれた。


「何日でも泊まって行ってくれたらいいのよ」
おばさんはそう言って、部屋を出て行った。


星さんも、田辺さんも、ともに穏やかで気さくな人だった。


夜は、2人の案内で、新宿西口にある大衆食堂で食事をした。値段が、びっくりするほど安かった。西口の周辺は、ギターを弾いて大合唱している若者たちもいたし、人ごみの中から噴出するものすごい熱気には、圧倒されるばかりであった。路地には、シンナーを吸っている薄気味悪い男たちも沢山座り込んでいた。テレビなんかで見ていたとおりの、東京・新宿の姿であった。


東京、なぁ…。
これが、新宿西口、なぁ…。
僕は、ここまでの旅で感じたことがなかったエネルギッシュな臭気を、鼻から思いっ切り吸い込んで、くしゃみが出るみたいな妙な気分だった。


1969年夏。 
新宿西口が、混沌の中で、最もエキサイトした直後の頃だった。











72 東北をあとにして

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第72回



12日間の東北の旅も終え、関東へ





 水戸の黄門さま






8月12日。朝から雨。
いわきユースホステルのロビーで朝刊を見ると、北陸地方は豪雨だという。北陸地方といえば、今ごろあの人たちはどうしているのだろうか。


北海道で会ったサイクリストたち。僕とは反対回りで、日本一周をしている3人の顔を思い浮かべた。


女性の日本一周・由見子嬢は、今ごろは新潟県か、富山県か、石川県か…? はたして、どのあたりを走っているのだろう。新潟でお世話になった旅館般若のおかみさん宛に、僕は手紙を託していた。由見子嬢は、その手紙を持って般若を訪れ、泊めてもらったのだろうか。


オホーツク海沿いの道で、由見子嬢と出会った日の朝に会った水谷クンも、同じようなところを走っているかもしれない。


あの新宿の大将・西島さんも、今は北陸あたりを走っているはずだ。北陸地方が豪雨だとなると、大将が大好きなヒッチハイクへの口実ができる。豪雨の洗礼を受けて、案外喜んでいる…な〜んて、そんなことはないか。


3人とも、よく似た時期に北海道から本州へ渡っている。そして、日本海沿いを、ひたすら南西へと走っているはずなのだ。僕は、懐かしい連中の顔を思い出すことで自分を奮い立たせ、雨の降りしきる中、いわきユースホステルを出発した。


いわき市から東京まで、220キロ前後の距離がある。僕の自転車のスピードでは、2日間の行程だ。しばらく雨の中を走っていたが、いよいよ雨脚が激しくなってきた。東北に入ってから、もう、どれだけ雨に降られていることだろう。


…あと2日走ったら、東京へ着く。
そのときが、待ち遠しくて仕方がない。


東京では、まず新宿の大将の寮を訪ねて、泊めてもらう。北海道の白老で知己を得た明治大学のフクダさんの下宿にも行く。阿寒湖で知り合った青山学院大学の女子大生・金子さん宅も訪れる。東京には、そんな、旅行中に知り合った人たちとの再会が待っている。さらに一人、大阪から大学の友人が来て、東京で合流する約束もある。
とても楽しみであり、一刻も早く東京へ着きたい気分なのだ。


降りしきる雨は、手加減をしない。
道路わきに、トタン屋根の薄汚いガレージがあったので、とりあえず、僕はそこで雨宿りすることにした。中に一台、みすぼらしく放置されたような軽トラックが入っていた。荷台には、ゴザが1枚敷いてあるきりで、他には何も乗っていなかった。僕は自転車を車のすぐ横に寄せて、荷台によじ登り、ゴザの上に仰向けに寝転んで、体を思い切り伸ばした。


残り物のパンを食べたりして、ぼんやりと過ごすうち、眠気が襲ってきた。こうして荷台に寝転んでいるのが、案外落ち着けて、気持ちがよかった。顔の上に帽子を乗せ、そのまま寝入ってしまった。


……。
何時間ぐらい経ったのだろう。
目がさめると、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。時計を見たら、午後3時である。道路は、雨で濡れていたけれども、空は明るくなり、陽がのぞいていた。よ〜し、今日はこのまま、夜を徹して、東京まで走ってやろう。阿武隈川で、隣同士にテントを張った茨城県のお兄さんなら、ここから東京までぐらい、こともなげに走って行くに違いない。僕にだって、できないことはないだろう。そうと決めたら気が引き締まり、がぜんやる気が出てきた。


僕はその勢いに乗って、雨上がりの道路を疾走した。関所跡で名高い勿来 (なこそ) を過ぎると、福島県から茨城県だ。東北地方はここで終わり、いよいよ関東地方に入る。




8月1日に、新宿の大将とふたりで、函館から下北半島に渡った。それから12日間、東北を縦断してきた。大将との別れ、八戸のウミネコ、啄木の碑、高村山荘、中尊寺石巻工業の校庭、松島、仙台の急坂、阿武隈川と茨城のお兄さん、そしていわきユースホステルから下って、いま、勿来を過ぎた。数多くの思い出を刻み込んで、東北地方は背後に遠ざかって行く。




      
東北地方 12日間 の 軌跡 です




夕方に、高萩市を通過した。
渋民村の石川啄木の碑の前で一緒に写真を撮った柴田さんという、一度会っただけで、平成18年の今でも年賀状のやり取りをしている男性が、この高萩市の在住である。


その次に通過した街は、「だっぺ」の茨城のお兄さんの日立市だった。そこで、日が暮れてきた。


車の量も少しずつ減ってきた。車のライトが道路の前後で途絶えると、国道6号線といえども真っ暗である。日の高いときには威勢よく徹夜走行を決意した僕だけど、周囲が暗くなると、とたんに意気は消チンして、肘の赤チンの痛みを思い出したりして、暗いところを走って事故なんか起こすと大変だぁ、な〜んてことも思いはじめる。やっぱり僕には、茨城のお兄さんのように豪胆な活力は備わっていない。徹夜の走行なんて、どだい無理なんだ…。 グスン。


どこか適当な場所で野宿をしよう。 そう決めた。やる気が出たり、ひっこんだりして、予定がコロコロと変わる僕でなのであった。


原子力研究所で有名な東海村を走っていると、道端に小さな神社があった。道路から少しヘコんだところにあったその神社の前で、自転車を止めた。狭いけれど、前には、テントを張るくらいの空間はあった。午後7時半だった。もう、欲も得もない。 今夜はここで寝よう。


テントを張り、中に入ってパンを食べ、寝袋にくるまった。テントのすぐそばを、トラックなどがびゅんびゅん走って行く。その轟音と振動は、半端ではなかった。無理に目を閉じてはいたものの、あまりに激しい車の音のおかげで、夜が明けるまで、とうとう一睡も出来なかった。


     ……………………………………………………


翌13日、朦朧としながら、テントをたたみ、5時40分にそこを出た。昨晩は7時半まで走ったが、そんな遅い時間まで走ったのは初めてだったし、今朝はまた朝の5時40分という早い時間からスタートしたのも初めてである。一晩寝ていないので、眼の調子が悪いようだ。景色がボンヤリと、かすんで見える。でも、しばらく走っているうちに、それは本物の霧が発生していたのだ、ということがわかった。ボケていたのは、眼ではなく、頭のほうであった。


勝田を過ぎ、水戸に着いたのが午前6時半。せっかくだから、日本3名園のひとつと言われる偕楽園に行ってみた。もうひとつの、金沢の兼六園には、6月に行っていた。さらにもうひとつの、岡山の後楽園には、…行ったことはない。偕楽園は、早朝なので、ひっそりとして、人の姿がどこにも見えない。好文亭という、水戸藩の殿様の別荘だったところは、閉まっていた。午前9時から開くのだそうである。時計を見たら、まだ7時前であった。


偕楽園を出て、僕は地図を広げた。
東京まで、120キロである。
土浦を通り、取手で利根川を渡ると千葉県に入る。
そして、富山で会った鈴木君のふるさと松戸を過ぎると、もう、そこは東京である。


…東京。
中学の修学旅行で行ったことがある。
この自転車旅行で、再び訪れる地、というのは東京が初めてだ。
今日は東京まで走るんだ…。
思っただけで身震いがした。

さぁ、出発だ〜。



早朝の偕楽園はひっそりとしていて、人影も見えない。








なんで 日付けだけが 裏向きになってる ?









71 福島県いわきへ

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第71回



阿武隈川で茨城の兄さんとテントを張る






仙台を出て、また国道4号線を南へ走る。
名取川を渡り、岩沼というところで、国道4号線と6号線の分岐点があった。4号線は、福島、栃木と内陸を通って東京へ向かい、6号線は相馬、いわき、水戸と太平洋側を通って東京につながっている。僕は、数日前から、6号線を走ることに決めていた。地図を見ると、4号線はいかにも山の中を走るイメージが強く、それに比較すると6号線は海岸沿いだし、わずかでも道は平坦であろう…。そんなセコい考えを判断基準にしたのだけれど、結果的にはむしろ海に近い道のほうが起伏が大きいということを知らされることになったのは、まあ、あとの話である。


その4号線と6号線の分岐のあたりで、大きな川が現れた。
橋に、阿武隈川、と書かれてあった。
あの「智恵子抄」に出てくる阿武隈川だ。
土手や河原が、いかにもテントを張りやすい形で広がっている。


 <今日はここで野宿をしよう>


そう決めた僕は、自転車を止めて、テントを張る場所を探しながら川の土手をうろついた。


そのとき、向こう(東京側)から一人、僕と同じぐらいの年齢のサイクリングの男性がやって来て、僕の自転車の横で止まった。僕がこれから何をしようとしているのか、わかっているようだった。そして僕に向かって、「こごはテントが張りやすいようだっぺ」と、話しかけた。
「今夜はここで泊まろうと思って…」 
と僕が言うと、彼は、
「じゃ、今日はこごで一緒に泊まっぺが」 
と笑顔を振りまいた。
そして、その笑顔以上に、強い訛りが、親しみを感じさせた。


思いがけなく、野宿の仲間ができた。うれしいことである。そして、ふたりで適当な場所を見つけ、隣同士にテントを張った。
「どこから来られたのですか?」と僕が質問する。
日立市からやってぎましたが、一晩中走り続けで、
今日も1日走ってごごまで来ました。
これから10日間をかげで北海道さ行きでえど思っています」


日立といえば茨城県だ。
茨城弁…というのは、本当に強烈なんだなあ。
その…訛り方が、ね。


「あなだは、どごから自転車さ乗っかって来たんですが?」
今度は僕が質問されたので、簡単にこれまでの行程を説明した。
茨城のお兄さんはそれを聞いて、
「大阪から? それは大変なことだっぺ。 でも、すばらしいことではねえですが!」 
と感心してくれた。
そして、「明日は一気に盛岡まで自転車で走りでえど思っています」
と言ったので、今度は僕が、その活力に驚いた。


僕は、盛岡からここまで、どれだけの時間を費やしたであろうか。盛岡駅を通過したのは8月7日で、その日は高村山荘で泊り、翌8日は平泉で泊り、次の9日は石巻でテントを張り、そして今日10日、1日かけて松島、仙台、岩沼と走ってきたのである。途中、寄り道はしているけれども、僕が3日かかったコースを、明日1日で走ろうというのはすごい。しかも、すでに、日立からここまで、夜通しで走ってきているのだ。う〜ん。 この茨城のお兄さん、ものすごい体力だっぺ…。


8月11日。
朝。また雨が降っている。
僕はふてくされ、そのまま寝続けてやろうかと思ったが、隣のお兄さんに起こされたので、仕方なくテントから出て、支度をし、僕たちは左右に分かれて出発した。


あ〜、国道6号線は坂道の連続である。
4号線にすればよかった…。
うじうじと後悔しながら、ペダルを踏む。


相馬市に入り、そこの郵便局で、5,000円を下ろした。


僕はこの旅行の出発に際して、5万円の旅費を用意した。
今の若い人には当時の物価がわかりにくいと思うが、
煙草やコーヒーがだいたい100円、
カレーライスが100円から150円ぐらいだった。


ここに示しているのが、僕の通帳である。





6月16日。 この旅行の出発前日に、僕が住んでいた大阪府柏原市の郵便局に5万円を貯金した。そこから、相馬の郵便局まで、計9回、お金を下ろしている。通帳の下に、左から順番に各郵便局長の公印が押されている。


6月16日 柏原郵便局長
7月 2日 函館駅前郵便局長
7月 7日 白老郵便局長
7月14日 稚内郵便局長
7月23日 弟子屈郵便局長
7月28日 川西郵便局長 (北海道・帯広市川西町)
7月31日 函館駅前郵便局長
8月 4日 横浜郵便局長 (青森県下北半島
8月 7日 盛岡郵便局長
8月11日 相馬郵便局長


相馬郵便局で、残金は12,000円になった。
実は、このあと、千葉で親から送金してもらっている。
だから、最後まで5万円で旅ができたわけではない。


雨が止んだ。
原町、というところで、食堂に入り、カレーライスを食べていると、僕のテーブルに、ひとりの男の人が寄ってきて
「君! 君だね! いま、こんなところを走っているの?」
と、僕の顔をのぞきこんだ。
見覚えのない顔である。
「はあ??」
と僕が首をかしげていると、
「ツカハラさんのところで会ったろう? 君、ツカハラさんとは親戚なの?」
男性は、そう言った。
「あ、ツカハラさんのところで…」 と僕は記憶をたぐってみた。
ツカハラさん、というは、青森県八戸のツカハラ時計店のことである。高校時代の教師の実家であり、その紹介で、僕は今月の4日と5日の2泊を、ここでお世話になった。そのとき、この男性は、ツカハラ家にいた僕を見たのだろう。でも、僕はこの人の顔を、まったくおぼえていなかった。


「大阪? まだまだ遠いねえ。頑張ってねェ」
そう言って、男性は、食堂から出て行った。


そうです。大阪は、まだまだ遠いです。


この日は、いわき市にあるユースホステルに泊る予定だった。
女性の自転車日本一周の由見子嬢が、
「建ったばかりでピカピカの施設だから、とても気持ちいいよ」
と、ここを勧めてくれていたので、もし、国道6号線を通るなら、そこに泊まろうと思っていた。


原町から、かなりの距離を走った。
途中で、犬に追いかけられた。ワンワンキャンキャンと吠えて、僕の自転車を追いかけて来る。追うだけでなく、ペダルを踏む足元に飛びついてくるから迷惑だ。普通はすぐにあきらめるものだが、この犬はしつこかった。僕が無理やりにスピードを上げてそれを引き離すまで、距離にして1キロ以上追いかけてきたと思われる。ようやく相手があきらめたと知った僕は、いったん自転車を止め、振り返ってそいつを眺めた。
50メートルぐらい向こうで、息を切らせたのか舌をダランと出して、その犬は立ち止まったまま、こちらを向いていた。
「だははは。ざまあ見ろ。あかんべぇぇ! さらばじゃ!」
と、かちどきを挙げて見せると、そいつはまたワンワンと吠えて、まっしぐらにこちらに走り始めてきたので、僕は驚いて自転車を走らせた。その粘りと根性を、僕にも少し分けて欲しいような、しつこい犬であった。


夕方、やっといわき市に着いた。

その施設は、正式にはいわき市ユースホステルといった。昨年5月に新築オープンしたので、由見子嬢が言ったように、何もかもが新しくて気持ちよく、そのうえ、ここは観光地ではないので、予約なしでも、部屋は十分に空いていた。風呂に入って一息つくと、本当に天国である。


ここにもさまざまな旅行者が宿泊していた。
5万分の1の地図を睨みながら、ローカル線と徒歩で、コツコツと旅している男性は、旅の素晴らしさを話し続けた。


  未知の土地で見知らぬ人々に会い、さまざまな経験を積んで
  我々は鍛えられ、成長する。
  旅こそ人をして人格を向上させる最大の人生の教師である…。


そんなことを、食事の終わった後のミーティングで力説するのだ。


その横に、九州から来ている男性が座っていた。
その男性は、ギターを抱えて全国を旅をしている、と言った。
ふ〜ん。 ギターを抱えて、なぁ。
あんたは、 … 小林旭か ?












  今日の行程









70 仙台

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第70回



松島から仙台を駆け抜ける





青葉城跡の伊達政宗




8月10日。
石巻を出発して1時間余り走ると、海が見えた。
多くの島々が点在している。 


松島である。




 




 
 小雨に煙る島々。




この旅行でも最大の名勝地として、期待の大きかった場所だ。
日本三景の一つとして、小学生のときからその地名にはなじんでいた。


松島タワー、というのがそびえ立っていた。
これはぜひ上らなければならない。


展望台に上がって外を見ると、たった今、雨が降ってきたようで、
景色はずいぶんかすんでいた。
しかし、いくらぼんやりとした景色であっても、目の前の光景は、
これまで、何度も写真や映像で見た松島に違いなかった。
京都の丹後半島に叔母が住んでおり、そこから近い天橋立には、
何度も行ったけれども、松島のほうが風景は多彩である。
僕は、現実の松島を目の前にして、感無量であった。


しかし…
松島タワーの展望台は、気持ちの悪いほど揺れていた。
最初は地震が来たのか、と思ったほどだ。
ゆ〜らゆ〜らと、大きく揺れ続けていた。
そんなに強い風も吹いていないのに、この揺れ方は普通ではない。
沢山のお客がいたが、誰も怖がっていないのが不思議だった。
「このタワーは、今年中に倒れるのではないかと心配です」
と、そのあと、僕は友達への手紙にそう書いたほどである。


  最近、松島タワーはどうなっているかと思ったら、
  なんと、すでに取り壊されていて、今はないのだそうだ。
  やはり、揺れが激しかったので、倒れる前に撤去したわけだ。
  あの揺れを保ちながら、特殊工法でタワーを存続していたら、
  イタリアのピザの斜塔ばりに有名になっていたかもしれないが…。
  でも、耐震強度がモンダイになる前に始末したのは、賢明だったよね。

 

       


           今は無き松島タワー。


   
      

松島タワーを後にして、僕は次の目的地である仙台へ向かった。
塩釜市を通り過ぎ、仙台まで、1時間半ぐらいだった。


驚いた。
仙台がこのような大都会だったとは、夢にも思わなかった。
大阪から日本海側を通り、北海道を一周したあと、
太平洋岸をここまで走って来たけれど、こんな賑やかな都会は、
北海道の札幌以来である。 路面電車も走っている。 
仙台駅も、これまでの駅とは比べ物にならないぐらい大きい。
久しぶりに味わう都会の空気に、大阪へ帰ってきたような気分になる。


仙台郵便局で、局留めで届いている友人たちの手紙を受け取った。
しかし、思ったより手紙の数が少ない。 
もう少し届いていてもおかしくない。
僕は、郵便局員の男性に、「これだけですか?」 と尋ねた。
「これだけのようだがね…。」 と男性は、ちょっとためらって、
「う〜ん。いま、郵便が、少し遅れているからね〜」 と言った。
なんでも、郵便関係の組織の中で紛争が起きており、
それで郵便物の配達が遅れている、と、男性は短く説明した。
< ストなのか…? > 
郵便局のスト????
そんなことがあるのかどうか、よくわからないけれども…。


手紙の郵便局留めは、タイミングがむずかしい。
僕が大阪の友人たちに手紙を出して、そのついでに、
「次は○○郵便局に返事ください」
と書くのだけれども、結果的にそれに間に合わなかった、
というケースが何回かあり、帰ってから文句を言われたりした。


青葉城址へ行った。
坂道がものすごく急である。 自転車を押して上がるのが苦しい。
上がりきったときは、へとへとになっていた。
伊達政宗の像や、土井晩翠の詩碑などを記念撮影する。
青葉城址から、仙台の市内を一望できた。
久しぶりに展望の開けた、都会の風景を目にした。





青葉城跡から見た仙台の街。 
     




伊達政宗の胸像。





土井晩翠「荒城の月」の碑の前で








69 石巻の子どもたち

自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜  第69回



高校の庭にテントを張ると子どもたちがやって来て




夕方、石巻工業高校というところの前を通ったので、学校へ入って行き、当直の先生らしき人に校庭の隅にテントを張らせてくれ、と頼んだら、快く許可してくれた。
ちょうど北上川の川開だったので、花火が打ち上げられており、ドドーン! という大きな音が、この校庭にまで響いてきた。


小学校上級生ふうの男の子3、4人が物珍しそうにテントに近づいてきた。
そのうちのひとりが、
「兄ちゃん、どこから来たの?」
と、テントの外であぐらを組んで缶詰をほおばっていた僕に訊く。
「大阪からや。…モグモグ」
「ふ〜ん。ずっと自転車で走っているの」
「そや、ずっと自転車や。 …モグモグ」
やがて、僕の自転車を見て、そこに貼り付けてあった僕の名前を、声を出して読んだ子がいた。 そして…
「え? お兄ちゃん、『巨人の星』 のヒト?」
と叫んだのである。


よく言われることなので、僕は別に驚かなかった。


巨人の星』 の漫画を描いたヒトと、僕とは、同姓同名なのだ。
梶原一騎は原作者で、漫画を描いたヒトではない)


疲れていた僕は、面倒だったので、
「ああ、そうや。 僕が、そのヒトや。 このごろな、漫画に描く材料が無くなったんで、
 こうして自転車旅行をして、社会勉強を兼ねて取材しているねん」
そう言って、
「もう寝るから、はよ帰り」
と子どもたちを追い払った。


すると、しばらくすると、ぞろぞろと10人以上の子どもたちが、僕を見るために、やってきたのである。


ひとりの子どもが、
「ねぇみんな、このヒトが、巨人の星を描いているお兄ちゃんなんだよ」
と、得意げに説明をし始めたのである。
「サイン、ほしい!」
と後ろから誰かが声を上げた。


ううううううう〜。
僕は、困った。とても困った。
引っ込みがつかない。
… 仕方なく、
「あ〜、ごめんごめん。 今、もう寝るところだからね。 明日おいで。そのときに、サインしてやるからさ」
と、いつのまにか、言葉も、大阪弁から標準語に変わる僕なのであった…。


翌朝。 まだ誰も起きていない早い早い時間にテントを片付け、僕は石巻工業高校の校庭から姿を消した。
夜逃げ、ならぬ朝逃げである。


テントを張っていた場所に、子どもたちがサイン帳を持って、やって来たであろうことを思うと、胸が痛んだ。僕は、子どもたちの夢をもてあそんだ悪いお兄さんだ。


…ごめんね。


当時の日記を読み返す度に、慙愧の念に耐えなくなる。
せめて、テントの場所に、何かメッセージを残しておけばよかったなぁ、と今になって思う。


たとえば…


「 諸君。 私は消えた。 これが、消える魔球なのだ。あはは 」


消える魔球、というのは、星飛雄馬の秘密兵器であることは言うまでもない。




            



実はこの文章は、2年前の「僕のほそ道」というブログに書いたものをそのまま掲載したものである。この話には、多少の脚色はあるが、だいたいは事実に基づいている。ただし、最初に小学校上級生ふうの男の子3、4人がやってきた、というのは、僕の記憶違いで、事実とは異なっていた。 


今回、当時の写真を見てみると、その子どもたちの年齢はバラバラで、人数も3、4人ではなく、全部で5人、女の子も2人いる。写真を見ているうちに、そのときのことを、はっきり思い出した。僕が、ガムをあげた子が、お菓子屋さんの子どもだったりしたんだ。


最初にやってきたのはこの子たちであり、中でも一番大きな男の子は、とても思いやりのある子で、他のこどもが僕のテントのまわりで騒ぐと、
「やかましいよ。この人は疲れているんだから」 
と言ってくれる。
そして僕に、
「兄弟はいるの?」 と聞くので、
「いない」 と答えたら、
「じゃあ、大事にしてもらえるね」 などと、大人のようなことを言った。
まだ小学生なのに、僕などより、よほど出来た少年であった。




  
    この写真が、その子どもたちと撮ったものである。
    一番右端の男の子は、とてもよく出来た子だった。


    ……………………………………………………


聞けば、石巻市はゴレンジャーや仮面ライダーで知られる、
石ノ森章太郎のふるさとで、今では石ノ森萬画館というのもあり、
この地域は、官民一体となって漫画文化の発信基地をめざしている、という。

     38年前に石巻に現れたニセ漫画家は…
      忸怩たる思いで当時を思い出すのである。