1 出発の日

  

 自転車の旅  〜 昭和44年 夏 〜






旅立ち  1969年6月17日


1969年(昭和44年)の6月17日。20歳で近畿大学3年生だった僕は、一人で自転車の旅に出た。住んでいる大阪から北陸へ上がり、日本海沿岸をひたすら本州の北の果てへ向かってペタルを踏み、青森から船で津軽海峡を渡ると、北海道の広い道路がまっすぐに延びていた。北海道を一周したあと、帰途は太平洋側を、東北、関東、東海へとたどりながら、大阪へ帰った。70日間の旅だった。


ユースホステルに泊まることもあったが、道路脇にテントを張ったり、駅で一夜を明かしたり、バス停で寝ることもあった。交番に泊めてもらったこともあった。いろいろな人たちとの出会いと別れ。喜びも哀しみも、感動も憔悴も、期待も落胆も、勇気も逃避も、後の自分の長い人生の予兆となるようなあらゆるものを、旅の混沌の中で、わずかだが、ひと通り味わい、実体験することができた。


なぜ僕はそんな旅に出たのか…?
はっきりした理由はなかった。と言っても、まったく急に思いついた旅ではなく、資金作りやコースの見当など、ある程度の準備はしていたけれど、旅に出た理由は…、やっぱり、どう理由付けしようと思っても、うまく表現できない。ただ「なんとなく」と言うぐらいのものでしかなかった。
それまで僕は、旅と言えば、中学の修学旅行で東京へ行き、高校の修学旅行で長崎や大分などの九州へ行ったぐらいで、ほとんど近畿圏から出たことがなかった。僕の頭の中では、東北などは夢のような存在であったし、北海道はすでに宇宙の彼方であった。ごく普通の旅行経験もなかったのに、急に2〜3ヶ月もかける旅をしようと思ったのは、これまで、あまりに旅をしてこなかった反動だったかもしれない。いずれにしても、「ふ〜む、なるほどなぁ、それでキミは自転車の旅に出ることになったのか…」と感心してもらえるような理由は、ゼンゼンなかった。


ともあれ、僕は、6月17日の朝、自転車に、テントや寝袋、飯盒、米、衣類、携帯ラジオ、地図などを積み、5万円が入った郵便局の貯金通帳と、親戚や知り合いの人たちからもらった餞別の現金12,500円を持って、実家の大阪を出発したのである。


その日は朝から雨が降っていた。
午前 11時半。心配そうな母と、仏頂面をした父に見送られ、雨の中を走り始めた僕は、まず、その自転車の重いことにショックを受けた。乗ったとたんに大きくよろめき、重心を失って自転車ごと倒れかけ、辛うじて片足をついて免れた。家の前からその様子を見ていた母が、走り寄ってきた。
「あんた。大丈夫なの?」
僕は一度自転車から降りて、
「あぁ。大丈夫やろ…」と自信なく答え、
「まあ、行ってくるわ」 
それだけ言って、また自転車に乗った。


両親の方を振り向くとひっくり返りそうだったので、まっすぐ前を向いたまま自転車のバランスを取ることだけを考えて全身を緊張させ、スタートした。雨が降っているので、ポンチョを被っての走行だ。いかにもじめじめと暗い雰囲気の中の出発である。


途中、付き合い始めたばかりの女性が勤める病院(城東区)へ寄った。
旅の途中で体調を壊したときに備えて、薬を沢山もらっていた。
「気をつけてね」と、お守りももらった。
彼女は仕事を中断して病院の裏に来てくれ、僕らは別れを惜しんだ。
カメラのセルフタイマーを使って、記念写真を撮った。
雨の中を立ったまま、慌しく2人だけの時間を過ごした。
いざ出陣の時だと言うのに、旅に出るのが辛くなった。


   

初めて2人で撮った写真。今の妻と。
この時から、もう38年が経ったとは…



彼女とお別れをして気を取り直し、再び出発である。
中央に穴があいていて、そこから頭を出し、前のハンドルから後ろの荷物まで全部かぶせる自転車用ポンチョは、雨中走行のために買っておいた。いきなりそれを使うことになったのだが、国道に出て、京都に向かって走っているとき、急に前からの強い風が吹き、その拍子にポンチョがフワーッとまくれ上がり、僕の顔を覆ってしまった。一瞬だが、目の前が見えなくなり、もう少しでひっくり返るところであった。

     

 ポンチョのイメージ写真。
 この写真では前がまくれることはなさそうです。
 当時の僕のポンチョは、前がもっと短いもので、
 安物だったのでしょう。


京都府に入ったあたりで、今度は前輪が水溜りにはまってハンドルを取られ、よろめくと、後ろで車が急ブレーキをかける音がして、運転手からの罵声が飛んだ。
「ほんまに、生きて大阪に戻って来れるやろか…?」
そんなことまでが頭をかすめた。


こんな雨の中の出発など、自分でも想像もしていないものだった。これが、見知らぬ土地、北陸、東北、北海道などへの憧れを胸に抱き、1年前からアルバイトをしてお金を貯め、何冊も本を読み、人に語り、夢にまで見た自転車旅行の出発かと思うと、あまりにも情けなかった。1年間をかけて築き上げてきたものが、出発のこの瞬間にあっけなく崩れていくようだった。どうみても、この出発の日が雨というのがよくなかった。僕はひ弱い性格だから、ちょっとしたことに影響を受け、感情が揺れ動く。


雨の京阪国道を、どうにか京都市内に入ってきた。


旅の1日目のこの日は、中学時代からの友人であるHが下宿している市内で泊まることになっていた。Hは京都工業繊維大学の学生である。待ち合わせは、彼の行きつけの喫茶店「杉山」というところだった。あらかじめ地図を送ってもらっていたので、その場所は容易に探し当てることができた。


旅行前、Hは、「とりあえず杉山へ来い。俺がまだ来ていなかったら『京都工繊のHの友だちだ』と言ったら、店の人は歓迎してくれる。なにしろ俺はその店ではいいカオやからな」と、自慢していた。しかし、僕が自転車で「杉山」へ到着したら、その店にはシャッターが下りていた。
「火曜日は定休日です」と紙が貼ってある。
「なんやねん、これは…」僕が唖然としていると、
「お〜い。すまん、すまん」
とHが路地からひょこっと姿をあらわした。
「きょう、この店、休みやったんやなぁ。知らんかったわ」
と頭を掻くHに、僕はあきれて、
「カオやったんと違うんか?  休みの日も知らんというのは、大したカオやないなぁ」と冷やかして、ポンチョを脱いだ。


Hの横にひとり、女性が立っていた。
同じ中学校時代の同級生のヒサコさんだった。
ヒサコさんは京都の龍谷大学に通っており、Hの近くに下宿している。2人は、間もなく同棲しそうな関係であることは、僕はHから聞いて知っていた。喫茶「杉山」が休みだったので、Hは、僕をそばの食堂に案内し、3人でAランチを食べた。


その後、ヒサコさんと別れ、僕とHは、一緒に、ミムラさんという学生のアパートへ向かった。僕らはそこで泊まることになっているそうだ。
「オレの下宿は狭い。こっちのほうがずっと広いから、ええやろ」
というHの説明であった。
ミムラさんはヌボッとしていて、1年半も散髪に行っていないというボサボサ頭の長身の男であった。Hは「広い」と言っていたけれど、ミムラさんの部屋は恐ろしいほど散らかっており、寝る場所もないほどだった。部屋に入って、3人で話していると、そこへ、これから自転車で北海道まで行くという僕の話を聞きつけたのか、そのアパートに住んでいる学生たちが入れ替わり立ち替わり、何人も部屋にやってきて、僕を珍しそうにじろじと眺め、「あ。こんばんは」となどと言いながら、「ふ〜ん…こいつがなぁ…自転車でなあ」という顔をしては消えて行った。


Hとミムラさんと僕の3人は、ゴミの山のような部屋でザコ寝をしたけれど、2人が気持よさそうに寝ている横で、気持が高ぶっていた僕は、なかなか眠れず、とうとう朝までほとんど一睡も出来なかった。




  H(右) はとても気のいい秀才だった。




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Hは次の年に、ヒサコさんと学生結婚した。僕は披露宴で、友人代表として生まれて初めてのスピーチというものをさせてもらった。
Hは中学校時代、常に学年でトップの成績をおさめていた。勉強ができて、気が良くて、熱血漢で、詩が好きだった。ヒサコさんも、同じクラスで、女子生徒の中では一番成績が良く、よくHとコンビで学級委員長をしていた。スピーチで2人を称える言葉は、いくらでもあった。
実に似合いのカップルだった。


2人が結婚式を挙げた後、まだ1年も経っていなかった頃。僕もHも大学4年生で、数ヵ月後に卒業式を控えていた頃である。


ある日の未明であった。僕が寝ているところへ、ヒサコさんから突然の電話があった。ヒサコさんは、たった今、Hが亡くなったことを静かに僕に伝えた。


「以前から、腎臓が悪かったのです」と付け加え、声をつまらせた。
聞いていた僕は、「はい…。はい…」と相槌を打つだけであった。
発するべき言葉がなかった。
そのとき、僕もまた、彼らに刺激を受けたこともあって、付き合っている女性と、学生結婚をする直前であった。


ヒサコさんは、話をただ黙って聞いているだけの僕に、
「Hは、あなたの結婚式に出るのを最後まで楽しみにしていました」
冷静な口調で、そう言った。


数年後、ヒサコさんは、再婚した。
相手は、ボサボサ頭のミムラさんであった。

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明けて6月18日。天気は曇り。
朝のうちに、前日の雨で汚れた自転車を拭き、注油をした。

午後1時。出発準備も完了して、僕は、Hとミムラさん、それにアパートに住んでいる大勢の学生たちに見送ってもらって、曇り空の京都を出発した。これが、実質的な僕の自転車旅行のスタートであった。




  京都を出発するとき。 Hが撮ってくれた。